「植民地軍解散(3)」(2020年12月03日)

ゴロツキ、やくざ者、チンピラなどを指すインドネシア語にプレマンpremanという言葉が
ある。この語はオランダ語のvrijmanがインドネシア語になったものであり、vrijは英語
のfreeに該当している。インドネシアという環境におけるvrijmanというのは、VOC時
代は会社、植民地時代はKNILとの契約を終えて、束縛から離れて自由の身になった人
間を指していた。そのために、官でなくて民の立場、軍警でなくて市民の立場にある者と
いう意味でプレマンという言葉が使われた。

軍人警察官は勤務中に制服を着用する。インドネシア語ではtentara/polisi berseragam
と言う。ところが制服を着ないで町中に出て来る軍人警察官がいる。そんなかれらを示す
ときにtentara/polisi premanという言葉が私服姿を意味して使われていた。たとえば私
服で捜査活動を行う刑事たちがpolisi premanだったのである。ところが現代ではもう、
プレマンというのはずばりゴロツキ、やくざ者、チンピラを意味しており、昔の用法は通
用しなくなっている。polisi premanだけではゴロツキ警官の意味に解釈されてしまうた
め、polisi berpakaian premanという表現をしなければならない。

プレマンの語が反社会的でネガティブな意味に変わってしまった裏側に退役KNIL兵士
のプリブミに対する驕慢な姿勢があったことを指摘したオランダ人もいる。それによれば、
KNIL兵士は植民市支配者をボスに仰ぐ先鋒であり、支配者の威をかさにきてプリブミ
民衆に相対する者たちであり、安易に殴る蹴るの暴力を振るうのが常で、そんなかれらが
退役してプレマンになってもプリブミ民衆に対する態度は変わらず、その結果プレマンと
呼ばれる人間の評価がネガティブになっていったのは当然だったとのことだ。

本国のオランダ陸軍もKNILのクオリティを見下げ果てたものとしていて、KNILと
はKlein Niet Intelligent Legerのことだと蔑んでいたそうだ。


KNILが最後の輝きを示したのは1945年から1949年まで続いたインドネシア共
和国の対オランダ独立維持闘争(別名革命戦争)のときだった。共和国の軍隊と民衆が戦
った相手がKNILだったのである。KNILの末端兵士になっているアンボン人・ティ
モール人・マナド人たちが共和国側のひとびとと殺し合いをし、それは癒えるまでに長い
歳月を必要とする忌まわしい記憶を培うことになった。

インドネシアが独立を宣言した後、ユーフォリアに呑まれた青年たちは武装集団を組織し
て、オランダの復帰に立ち向かう意欲を示した。日本軍が抑留キャンプに入れていたオラ
ンダ人が市中に戻って日本軍政前の状況を再現し始めたのだから、武装青年団との衝突は
避けられるはずもない。ましてや、イギリス軍が進駐してきて終戦処理を行う中で、旧オ
ランダ植民地機構がその後ろに隠れながらついてきて旧態復帰の動きを進めれば、共和国
側との全面衝突に向かうのは明らかだ。

オーストラリアに逃れていたKNIL幹部たちと抑留キャンプから解放された幹部たちが
KNIL再建に取り掛かり、旧KNIL兵員だったプリブミに復帰を呼びかけた。インド
ネシア共和国などオランダの力の前では風前の灯火だと考えた者は喜んで復帰し、共和国
を滅ぼさせてはならないと考えた者は共和国軍に走った。だから戦後のKNIL再建では、
兵士たちの間で一応の踏み絵は終わっていたと考えてよさそうだ。

オランダ植民地主義者の目には、インドネシア共和国というのはプリブミの謀反勢力が勝
手に打ち上げた看板でしかなく、しかも東インドの国家主権は自分たちのものであると主
張してオランダを追い払おうとしているが、そんな共和国などまだ国際世界から承認され
てもいないという構図が映っており、国家組織としてオランダ王国と対等な立場に立とう
などとはとんでもない話だということになる。

必然的に共和国同調者はオランダ領東インド植民地行政の敵になった。現場で社会治安を
担うKNILと植民地警察にとってはならず者集団でしかない。おまけに武力を使って反
抗してくるのだから、それなりの対応が当然とかれらは考える。[ 続く ]