「植民地軍解散(5)」(2020年12月07日)

オランダのヘームスケルクHeemskerkに住むジェフリー・ポンダアフもそのひとりであり、
かれは2000年以来、オランダの良心を問う動きを開始した。その5年前にオランダの
ジャーナリズムはインドネシア共和国独立50周年をとらえて、KNILがインドネシア
で行った戦争犯罪に焦点を当てたルポを流した。ジャワで、マドゥラで、南スラウェシで
行われた人権違反行為の中にラワグデ事件も含まれていた。

植民地で植民地軍が行った不祥事を知っていながら、オランダ軍首脳部は目をふさぎ、口
を閉じた。実行者のだれひとりとして処罰された者はいない。政府さえもが軍部に同調し、
植民地での非人道行為をアンタッチャブルにした。ジェフリーは同志を糾合して2005
年5月5日にKUKBオランダ名誉負債委員会財団を設立した。


財団が取り上げたのはラワグデ事件で、駐インドネシアオランダ大使館やオランダ政府に
対する陳情を繰り返した。事件の告発と被害者への賠償要請がその内容だ。

政府はその陳情を拒否して、2007年に財団への補助金を停止した。KUKBは独立財
団になるしかなかった。その年にインドネシアを公式訪問したオランダ外相はインドネシ
アの独立維持闘争期の非人道行為について、残念に思うという遺憾表明を行ったが、謝罪
の言葉はなかった。

ラワグデ村でラワグデ事件60周年記念の催しが行われたとき、大使館側は被害者の未亡
人たちに金一封を配った。だが、その中身はたったの8万ルピアだった。それを知ったジ
ェフリーは激怒した。

ジェフリーはボスニアのムスリムジェノサイド事件を扱った女性弁護士と知り合い、それ
をきっかけにして、政府を告発してラワグデ事件被害者遺族への損害賠償を行わせる方針
がスタートした。弁護士はラワグデ村を訪れて被害者遺族や目撃者の証言を集め、嘆願書
にまとめて政府に突き付けた。政府が拒絶したため、ハーグ文民法廷への告訴の準備が開
始される。2008年に被害者遺族10人の名前でオランダ政府を相手取った告訴状が裁
判所に届けられた。告訴状には独立インドネシア共和国の完全認定、インドネシア民族へ
の謝罪、被害者への損害賠償などの要求事項が含まれていた。

一方、ジェフリーは国会諸政党へのアプローチを行ってオランダ社会党の支援を取り付け、
国会でも政府糾弾の声が上がるようになった。こうして裁判は国民の注目を集めるものに
なり、被害者遺族が行った法廷での証言に多数の国民が関心を寄せて、被害者への寄付金
すら集まるようになっていった。

2011年9月14日に行われた判決文読み上げの中で文民法廷判事団は政府に有罪判決
を下し、ラワグデ村の被害者遺族たちへの損害賠償を命じた。その判決に感動したのは、
原告やジェフリーたち関係者のみならず、ラワグデ村で判決が下るのを待ちながら記念碑
と墓地に集まって来たインドネシア国民と、裁判に関心を持ったたくさんのオランダ国民
もが含まれていた。事件から64年後にオランダの良心が証明された瞬間がそれだった。


KNILと共和国の闘争が開始された当初から、インドネシア共和国の強敵がふたりいる、
とよく言われた。ひとりは東インド副総督のユベルトス・ファン・モークH van Mook、も
うひとりはKNIL総司令官シモン・ヘンドリック・スプールSH Spoor中将(後に大将)
だ。

スプールは国家に忠実な愛国者で、頭脳鋭敏でハードワーカーであり、だからこそ共和国
側はかれのアグレッシブな軍事攻勢を怖れたのである。ただしファン・モークもスプール
も、時代の趨勢というものを理解して歴史の中で自分は何をなすべきかという高邁な視点
を持つことに失敗した人間たちだったという評価をインドネシアの歴史家は与えている。

音楽家の家庭に生まれたスプールは軍人になる道を歩んでブレダの王国軍事アカデミーを
卒業し、第一次大戦前の東インドに赴任した。大戦終了後かれは一旦帰国したが第二次大
戦勃発直前に東インドに戻った。[ 続く ]