「バタヴィアに夜の革命(前)」(2021年01月06日)

インドネシアのガス事業は、バタヴィアのモーレンフリート西通り(今のガジャマダ通り)
から西に入ったガンクタパンGang Ketapang(今のザイヌルアリフィンKH Zainul Arifin
通り)の広大な敷地にガス工場が建てられたのが発端だ。建設は1859年に開始されて
1861年に完成した。オランダのハーグに本拠を構える民間会社のエイントホーフェン
社I.J.N. Eindhoven & Coがその経営を20年間のコンセッションを得て1862年12
月4日に開始した。

ガス工場では石炭が巨大な数基のタンクの中で焼かれて石炭ガスが採取された。タンジュ
ンプリオッ港から工場に石炭を運ぶための貨車線路が引かれて、工場の裏手が石炭集積場
になった。

工場のタンクは常に煙を吐き、工場の壁から外の小川に向けて突き出したパイプからは真
っ黒な水が流れ出し、地獄の火あるいは魔法使いの炉を想像させるような形態の真っ黒な
燃焼炉は24時間稼働して轟轟たる音を周辺一帯に響かせた。近くを通る子供たちにとっ
てその姿は恐怖の的になった。子供たちの悪夢の中にしばしば登場したし、大人でさえも
工場近辺を通るときには、工場から顔を背けて足早に通り過ぎようとするひともあったそ
うだ。言う事を聞かぬ子供を持った親には好都合で、子供を叱るときには「あの炉の中に
放り込むぞ」という言葉が決定打になったという話だ。


1864年、いったいどうしたことなのか、植民地政庁は公有会社である東インドガス会
社NV Nederlandsch Indische Gas Maatschapij (NV NIGM)を設立してガス会社経営をエイ
ントホーフェン社から取りもどし、直接経営に変えた。NIGMは1908年にスリナム、
1927年にキュラソーまで事業を広げている。

第二次大戦中にNIGMはガス工場11、発電所33を建設し、世界規模に発展したこと
から海外ガス電気会社NV Overzeese Gas en Electriciteit Maatschappij (NV OGEM)と改
称している。

1905年、バタヴィアの都市ガス供給はバタヴィア電力会社Bataviaasche Electrische 
Maatschappijに委ねられてバタヴィア中部地区からメステルコルネリスに至るエリアの街
灯と家庭用ガス供給が続けられた。

1950年から1958年まで、バタヴィアのガス事業は海外ガス電気会社が掌握したが、
インドネシア政府が国有化して電力ガス会社移管機構がその経営に当たり、それは196
1年に国有電力会社PLNの前身である公共事業体に発展した。ガス会社は更にそこから
分離して1965年に国有ガス会社Perusahaan Gas Negara (PN Gas)が作られてから公共
事業体Perum Gas Negaraに転換して今日に至っている。


1862年9月4日、バタヴィアの夜に画期的なできごとが起こった。東インド総督のバ
タヴィア拠点であるレイスウェイク宮殿Istana Riswijkにガス灯の明かりがともったのだ。

更にその年10月1日、バタヴィアの大通りに街灯が輝いた。ガス灯は最初、赤色で燃え
る扇型のバーナーが使われていたが、後に火芯とガラスカバーに替わった。残念なことに、
どの通りにガス灯が設置されたのか、詳細情報が見つからない。

街灯と都市ガス事業は東インドの各地に波及して行った。バタヴィアからメステルコルネ
スへ、スラバヤ、スマラン、ブカシ、バイテンゾルフ、タナデリ(メダン)へと文明化の
進展はすさまじいものがあり、そしてその文明化というものによって電力にその地位を奪
われる結末がその先に待ち構えていた。

ガスは街路灯や家庭用の燃料あるいは照明に使われて、バタヴィア最大の消費地区である
高級住宅街メンテン地区まで送り込まれた。メンテン地区内での配送の効率化をはかるた
めにマンガライのアニェルAnyer通りに貯蔵タンクが設けられた。当時バタヴィアには背
の高い建物があまりなかったので、貯蔵タンクは遠い場所からでもよく見えた。

事務所や製造工場にも送り込まれて利用されたが、ナイトライフ娯楽産業が最大の享受者
になったようだ。薄暗かったバタヴィアのナイトライフが一転して華麗で華やかなものに
なり、住民のライフスタイルに変化が生じた。

1883年にバタヴィアにはガス利用契約者の消費メーターが1,270あり、スラバヤ
には384あったという記録も見つかる。その当時設けられた都市ガスパイプラインは、
経営者がインドネシア国有ガス会社PGN(Perusahaan Gas Negara)に替わった今でもジ
ャカルタで使われており、PGNは都市ガス利用者を勧誘するのに余念がない。

家庭用ガス市場はLPGが開発されたことで大ショックに見舞われ、バタヴィアのガス工
場は斜陽の道を歩むことになった。古い時代を知っている工場関係者によると、日本軍政
期が始まったとたんにガス工場は行政の視野から外されてしまい、独立後も将来性はない
と見られて放置され続けたそうだ。[ 続く ]