「続・ヌサンタラの酒(4)」(2021年01月11日) その昔、イスラム化した後でもヌサンタラの飲酒習慣が消え失せることはなかった。伝統 的な生活慣習を新来のイスラム界が容認し、寛容な姿勢で現実に対処していたことは想像 に余りある。その姿はオランダ人がいなくなるまで続いたようだ。 独立インドネシア共和国になってから、寛容な姿勢が変化し始めたのではあるまいか。わ たしがインドネシアに関わり始めたころには、「アルコールはハラム」のモットーが国中 にこだましていたようで、禁忌を犯すということに対する教徒の精神的負い目意識が強く 感じられる時代だった。アルコールは一滴たりともハラムであるという観念に沿って、消 毒用アルコールもアルコール含有化粧品もハラムであるという原理に向かったわけだが、 おかしなことに、毎日きちんと5回の礼拝を行い、断食も誠心誠意心を込めてそれを実践 する庶民たちが、まったく平気な顔をしてタぺを食べている矛盾に驚かされた。 そもそも、ずっと昔にタぺ生産者がハラル認証をMUI(ウラマ評議会)のハラル認定機 関から得ていた事実があり、多分それが寛容な時代を象徴するものだったのだろう。しか しわたしが関わって来た50年間はしぶきを立てて不寛容に突き進んでいた時代であった のかもしれない。だから最近になって、アルコールでなく酔うことがハラムなのだという 見解のもとにタぺは製造も飲食もハラルであるという定義が優勢になっていることは、あ たかも歴史が螺旋階段を回っているようなイメージをわたしにもたらしてくれる。 ブコナンやトゥガルやバニュマスで先祖代々チウ生産を行っていた庶民たちは、アルコー ル不寛容の時代に困惑したことだろう。イスラム社会の禁忌を犯す破戒の元凶と指さされ たなら、何百年も続いてきた家業の営みをどうすればよいのか分からなくなる。かれらは ただ、先祖代々伝えられてきた遺産である家業を維持継続して、祖先に報いたいだけなの だ。社会に害毒を流そうという気などさらさらない。 不寛容が進んだ時代、スケープゴートを欲しがる人間はたくさんいた。社会からの指弾を かわすためにブコナン村のひとびとは、チウという言葉を使わないようになった。生産者 たちは自分の製品をエタノールと呼ぶようになったのである。 昔からブコナンはチウの村としてヌサンタラに知れ渡っていた。イスラムが寛容な時代に はそれが販売促進の役割をも果たした。ところが破戒の元凶チウの村という烙印に社会が 価値観を変えたとき、社会生活においてチウの村は180度の大転換を蒙ってしまった。 ブコナンの村人たちはチウをエタノールに変えるアイデアでそれを乗り切ろうとしたが、 チウの村の評判を「エタノールの村」という看板に書きかえるのは容易にできるものでは ない。 これまで作っていたアルコール度35〜40度のチウをアルコール度90%のエタノール にすることにブコナン村は取り組んだ。県の指導と協力を得て蒸留器具をモダン化させ、 エタノール製造に邁進しているのが、チウで名前を売ってしまい、不寛容時代の真っただ 中に落とし込まれたブコナン村の苦難の道になっている。 今でこそ、サトウキビを素材にする蒸留酒がチウという名前を持っているものの、その物 自体がジャワの地に出現したときからチウという名称が与えられたのかどうかは分からな い。チウという華語由来の言葉で呼ばれているから、その物品の由来縁起は華人がもたら したのだという考えを持つと、ジャガイモという日本のはてな常識と同じものになってし まうかもしれない。 歴史家によれば、8世紀から13世紀ごろまでの碑文の中に酒の話題はよく登場していて、 11世紀のカディリKadiri王国時代にサトウキビ蒸留酒は既に飲まれていたという解説も ある。[ 続く ]