「バタヴィアの売春婦(1)」(2021年01月14日)

人類最古の職業と言われている売春が人類史のはるか後世のバタヴィアで行われなかった
はずがない。最古の職業というのが本当かどうかは知らないが、売春が穢れたものとされ
たのは、婚姻=家庭が社会の基本ユニットであり、健全な家庭の集合体が健全な社会を形
成するという社会観の帰結であって、異なる社会形態を選択していれば「売春=穢れたも
の」という価値観になっていなかったかもしれないと言うことはできるだろう。

中でも軍隊というところは婚姻=家庭が成り立たない社会であり、軍営・兵営の周囲には
必然的に売春宿が作られた。VOCの領土としてバタヴィアの街が出来上がると、バタヴ
ィア城Kastil Bataviaの外側に売春宿ができたという記事がある。城内の兵舎に暮らすV
OC兵員たちを当て込んだ商売だったのは疑いがない。

非軍務のVOCバタヴィア駐在員たちは普通、会社の資産である社宅と使用人をあてがわ
れており、使用人はたいていが奴隷であって、ご主人様に奉仕することが求められていた
のだから、女奴隷がご主人様のベッドの友になるのは環境と経済性から見て自然な成り行
きであり、ニャイの風習に至る道程が元から備わっていたということにちがいあるまい。

かれらが買春をする必然性はあまりなかったということが言えるだろう。軍務社員が東イ
ンドVOCの中で一番の下っ端と見られていたことは、このような面からもうかがい知る
ことができそうだ。


売春宿の場所はカリブサールを越えた西バタヴィアの街区だったにちがいあるまい。城の
すぐ南側は練兵場があり、もっと南の街区はVOC高官たちの社宅だったのだから、そん
な環境の中に娼館を置かせるはずはないだろう。兵士たちは橋を渡って買春に行った。

現存している唯一の跳ね橋は現在インタン橋Jembatan Intanと呼ばれているが、最初はイ
ギリス橋Engelse Brugと呼ばれた。ジャヤカルタ時代にイギリスがその西側に商館を建て
た場所だったからだろう。マタラム軍侵攻で破壊された後、1630年に改修されてから
は、ニワトリ市場橋Hoenderpasarburgと呼ばれた。近くにニワトリ市場があったと説明し
ている情報も見られるのだが、チキンは若い女を意味する言葉でもある。売春婦のたまり
場である売春宿をチキン市場と呼ぶことは、わたしだってするかもしれない。

夫が妻と切るに切られぬ関係を持つように、兵隊と娼婦も似たような関係になった。これ
は集合名詞としての用法だから、誤解してはいけない。その当然の関係を軍隊上層部が認
めて制度にした国がいくつかある。旧日本軍が兵隊のための慰安所を作って慰安婦を置い
たように、ドイツもフランスも似たようなことをしたらしい。イギリスはインドで女王の
娘たちと呼ばれる制度を行っている。オランダは東インドでそのようなことを行わず、兵
舎のニャイ制度を行った。ニャイを持てない兵隊たちは言うまでもなく、私設の売春宿へ
出かけて行った。オランダの方が、手が込んでいたと言えそうだ。


バタヴィアになる前のジャヤカルタに売春がなかったかどうかということになると、曖昧
模糊としてくる。イスラム社会は売春が存在しない社会だという誤解を信じ込んでいる非
ムスリムが少なからずいるようだが、そんなことはない。インターネットでイスラム諸国
の売春を英語で調べれば、情報はいくらでも手に入る。英語でそれなのだから、アラブ語
ではもっと奥深い情報が手に入るにちがいあるまい。もっとも、その利用者のマジョリテ
ィが非ムスリムということはありうるだろう。何しろ男を暴君にするのを後押しするのが
イスラム文化だから、財さえあれば容易に結婚でき、そして容易に離婚もできる。専用の
欲望充足物が簡単に手に入るというのに、公共充足物を使いに行く者はあまりいないだろ
う。おまけに婚姻制度を使う売春というものすら存在しているのである。[ 続く ]