「クロンチョンとダンドウッ(3)」(2021年02月15日)

長期に渡ってそのようなパターンがクロンチョン音楽の歌詞に塗り込められた。20世紀
半ばになって日本軍がインドネシアを占領してから初めて、sayang-sayangだらけの歌詞
になっているクロンチョンの歌を啓民文化指導所が禁止した。sayang-cinta-kasihは西洋
のものであり、植民地主義に抗争するための闘争意欲を軟弱にする、というのがその理由
だった。そのため、日本軍の希望に合わせて歌詞のたいへん口語的なSuciやHanya Engkau
が作られた。

禁止、禁止、の先例は共和国独立後のインドネシア大統領たちに継承された。初代大統領
はそれを行ってインドネシアポップ音楽に見せかけのナショナリズムをもたらした。かれ
自身が名付けたガッギッゴ音楽という西洋帝国主義の産物に反抗することに関して、かれ
は民族パトスを利用するのに成功している。第二代大統領は情報大臣を通して、たいへん
な騒ぎとなったテレビからの泣き虫・弱虫・意気地なし追放を行った。第三代大統領はま
だ研究技術開発大臣時代に、ある種の音楽を禁止するよう求めた。

発展途上国の指導者の器量は劣悪なものであるために、個人的なフラストレーションが国
民社会に向けられ、国民はそれを正しいものとして受け入れなければならないものになっ
ているのか、という僻見が湧いてくる。しかし実際には、アメリカのセクトであるイェホ
ヴァの証人の公認機関紙Awakeの1999年10月8日号に、社会規範から見てわいせつ
であるとしてアメリカの地方判事がラップ音楽を禁止したことが報じられていた。


それなのだ。好みや世代の相違が政治問題にされて先鋭化するがためにしばしば音楽の発
展に対して偏見が起こることが本論の冒頭で述べた問題の本質なのである。西洋で偏見は、
文明を整える原泉としての教会が否定するものという形でモラルの鎧をかぶせられる。一
方、インドネシアではきわめて単純で、西洋文明は背教的・倫理崩壊・無益、そしてもっ
とも浅薄な憶測がキリスト教化。

もし西と東の結合現象が社会の特定階層、たとえば一般大衆層に起こった場合はまた違っ
てくる。そこには宣教方針に関連付けたアポロギアが組み立てられる。つまりムラユ・ジ
ョゲッjoget・ガンブスgambusにハードロックが加わった西と東の結合体であるダンドゥ
ッ音楽がそれだ。ほとんどの歌手はこれ見よがしの節度のない姿で登場し、官能的でエロ
チックな動きを武器にしてエクスタシーに向かうにもかかわらず、ダンドゥッに対する拒
否はまったく起こらない。そして奇妙この上ないことに、そのようなものが支配者に抱き
かかえられ、支配政策のために利用され、政党プロパガンダのツールにされるのである。

それに関する鮮烈な記憶としては、ある知事がダンドゥッを録画したのにはじまり、内務
大臣が独立50周年のダンドゥッ大ページェントをバックアップしたことに続き、オルバ
レジームの終末期にダンドゥッの王と呼ばれるアイドルを国会議員に据えるに至ったこと
がクライマックスになった。


ダンドゥッという言葉自体、元々はオルケスムラユorkes Melayuがマージナルな存在から
勃興して1960年代末にレコーディング界を支配下に収めた動きに対してロック音楽者
たちが与えた冷笑的な言葉だったのである。ムラユ音楽自体に対する偏見は独立初期から
広がっていた。1951年に国営ラジオ局RRIがインドネシアの音楽発展のバロメータ
ーであると言われているBintang Radio第一回コンクールを開催したとき、制度的条件を
満たす妥当な分野としてクロンチョン・ヒブランhiburan・セリオサseriosaの三つだけが
取り上げられた。[ 続く ]