「クロンチョンとダンドウッ(終)」(2021年02月18日) かれら自身も逆に、同じような行動を執らないプリブミを後進的・プリミティブ・無礼者 ・未開人などと評した。西洋的オランダ的でない落ちこぼれ階層に向けて、唇をゆがめて 吐き捨てるように言う「地がムラユだからな、おまえは」は「この田舎者めが」と同じ意 味の揶揄や侮蔑を表した。これは明らかに音楽嗜好とは無関係の、本来たいした意味のな い問題が生んだ過去のトラウマである。そして、明日が来ようともこの傷が癒える気配を われわれは感じることができないのだ。 ムラユ‐ジョゲッ‐ガンブスから出来上がったダンドゥッ音楽が、Bintang Radioの中で 情報省が構築した民族文化の柱から外されてマージナルな領域に最初から置かれていた理 由もそれと同じなのである。その状況はいつまでも継続され、維持され続けている。その 差別のゆえに、その存在への認知に関するある種の怨恨がダンドゥッ音楽者層にまとわり ついていることをわれわれは理解することができるのである。民間テレビ番組のひとつク イズダンドウッを見たことのあるひとは、司会者がいかに次の表明を繰り返して述べてい るかに気付いているだろう。「ダンドゥッがカッペ音楽だなんて、とんでもない!」 本論はその現実から脱け出す道を示すものではない。これから述べるものが、クロンチョ ンであれダンドゥッであれ、理性が生み出したもの以上に直観的な文化融合の結果生じた 大衆娯楽音楽の価値をいかにして永続させるかという問題についてのひとつの見解として 期待されうるものであるなら、その鍵はそれを解釈した上で書かれた作品つまり文章媒体 としての作品を作り出す次世代のリベラルな意欲に委ねられているとわたしは言おう。人 はそこで旋律と対旋律、リズムと律動の摩擦、ハーモニーとコードのコントラストに調和 させる鋭さなどの一体性を吸収し、全種のスコアに対する意識のクオリティを考慮に入れ ながら意識下の現象に支えられた感覚器官の機能を分析し、最終的に美への衝動と倫理の 実現のはざまに至るのである。 現時点の問題は、その現実から生まれた、使命感を抱いて全精神を、つまり理性を総動員 してリベラルの枠の下に向けさせる次世代のインドネシアの作曲家が存在するかどうかと いう点にある。なぜなら、未来の民族を楽しませて当然の、批判に耐える芸術のあり方は、 道具扱いしようとする政治権力者のえこひいきを含んだ支配権力というものに抑圧されな い真の自由がある場合、要するにリベラルである時にのみ可能なのだから。[ 完 ]