「クロンチョントゥグ(1)」(2021年02月19日)

クロンチョンの歴史は1661年にさかのぼるとひとは言う。オランダVOCがポルトガ
ルの東南アジア前進基地だったマラッカを1641年に陥落させてから捕虜のポルトガル
兵を奴隷にしてバタヴィアに連れて来たのが発端だったそうだ。ポルトガル兵というのは
人種的にメスティ−ソと呼ばれるポルトガル人とアジア人との混血者、あるいはポルトガ
ルが占領したインドのゴア・マラバール・コロマンデル・カリカット・セイロンなどの原
住民で、一旦奴隷にされてからカトリック教徒になることを条件に奴隷身分から解放され
たひとびととその子孫から成っており、かれらはアジアのポルトガル植民地で純血ポルト
ガル人に同化して植民地運営に参加し、ポルトガル文化の下で植民地生活を営なんだひと
びとだった。

ポルトガルという小国が人的資源に大いなる不足を抱えていたのは周知のことであり、ア
フリカ〜アジアに渡洋進出して作った占領地で地元の女に子供を産ませ、ポルトガル文化
の中で育ててポルトガル人としての意識を植え付け、そのメスティ−ソを使って不足して
いる人的資源を補うことがポルトガルの国是とされていた。東洋の果ての小国ではきっと
想像もつかないような人種観・民族観だったにちがいあるまい。ポルトガルの世紀の半ば
ごろには、ポルトガルの軍事要塞にいるのは将校級だけが純血ポルトガル人で、兵員は全
員がメスティ−ソと解放奴隷であるとか、軍船の船長一人だけが純血ポルトガル人で乗組
員全員がメスティ−ソと解放奴隷であるというような例が多々出現したとのことだ。


ポルトガル植民地では自由人だったかれらがオランダ人との戦争に敗れて捕虜になったと
き、こんどはオランダ人の奴隷にされた。バタヴィアに連れて来られたのは、バタヴィア
の都市建設のための労働力が必要とされていたためでもある。

オランダ人もプロテスタント教徒になることを条件にしてかれらを奴隷身分から解放した
が、あくまでもプロテスタントへの改宗を拒否する者たちはフローレス島に送り込まれた。
バタヴィアでカトリック教は禁止されていたのである。バタヴィアでその禁教が解かれた
のはダンデルス総督の時代だ。つまりその時フランスの領土になっていたのだから、カト
リック禁止が捨て置かれるわけがなかった。

自由人になったポルトガル系のマーダイカーたちは、バンダ人など同じキリスト教徒と結
婚した。1661年になって、バタヴィアのキリスト教会がヨアン・マーツァイカーJoan 
Maetsuyker第12代VOC総督の許可を得てかれらを新天地に送り出した。とは言っても、
豊穣な約束の地がバタヴィア周辺にあったはずもなく、バタヴィア城市から20キロほど
南東に離れた湿地帯の中の土地がかれらに与えられた。そこは人間を襲う野獣がおり、マ
ラリア蚊の巣窟でもあった。それについて、宿敵ポルトガルの奴隷はそこでゆっくりと全
滅せよという目論見でオランダ人がしたことだ、とコメントする現代インドネシア人もい
るのだが、まあ、そう単純なものでもあるまい。


そのとき、新天地に向かったのは23世帯150人のメスティ−ソMestiezenだったとV
OCの記録に残されている。かれらが新しいキリスト教徒コミュニティを作った場所はト
ゥグ村Kampoeng Toegoeと呼ばれた。そこの地名がトゥグとされた背景を物語るいくつか
の説がある。

もっとも有力なものはジャカルタ都庁が支持しているこれだ。現在の北ジャカルタ市チリ
ンチン郡西スンプル町トゥグ村のトゥグという地名は、西暦紀元450年ごろにタルマヌ
ガラTarumanegara王国のプルナワルマンPurnawarman王がその地域でチタルム川の治水事
業を行ったことを記念する高さ1メートルほどの卵形の石碑が建てられていたことに由来
している。トゥグとは1878年に発見されたその石碑を意味しており、石碑は発見され
た場所から1911年に西ムルデカ通りにある今の国立博物館に移された。[ 続く ]