「クロンチョントゥグ(3)」(2021年02月23日)

現在建っているトゥグ教会は石造りのもので、これは1748年7月28日にオープンさ
れた。その再建工事はスネン市場やタナアバン市場を作った大金持ちの地主ユスティヌス
・フィンクJustinus Vinkが行ったようだ。かれはチリンチンの地主でもあったそうで、
どうやらその縁でフィンクがトゥグコミュニティにその教会を寄贈したように思われる。

正確に言うなら、現在の教会建物は三代目に当たる。最初の木造のものが朽ちたために1
738年に新しい教会に建て替えられたが、華人大虐殺事件が起こって華人武装集団が建
物を焼き討ちしたために、使えなくなってしまった。フィンクがそれに代えて、そこから
少し離れた場所に新しい教会を建てたというストーリーが語られている。


トゥグ教会はライデカー牧師が最初に建てて以来、バタヴィアのプロテスタント教団の統
率下に置かれたらしく、代々の牧師はバタヴィアから派遣されている。つまりは、マーダ
イカーコミュニティが自由放任されたのでもなければ、勝手に全滅せよという悪意で島流
しされたのでもないということをその一事が証明していると言えるだろう。為政者にとっ
ての必要な「ひも」は、そのような形でしっかりと結わえられていたように見える。

ライデカー牧師はトゥグでの生活中にオランダ語聖書のムラユ語への翻訳を始めた。かれ
がそれを行ったのは、ポルトガル語で行われている礼拝をムラユ語に変えるためだったよ
うだ。カトリックの観念を引きずっているポルトガル語がオランダ式プロテスタントの礼
拝にいつまでも使われていてはいけないということだったのか、それともそのうちに後継
の牧師がポルトガル語での礼拝の統率に難をきたすことを懸念したのか、いずれにせよト
ゥグ教会での礼拝言語はムラユ語に変わって行ったのである。しかし住民の生活言語を変
更させるようなことはまったく行われなかった。インドネシア共和国が独立し、トゥグ村
が多種族多宗教の外部者国民を受け入れるようになっても、20世紀後半が半ばを過ぎる
ころまで、マーダイカーコミュニティの生活言語はアジア版ポルトガル語が継続していた
ことを現存している子孫たちが物語っている。

1701年3月にライデカー牧師が生涯を閉じたとき、ムラユ語聖書の翻訳はまだ終わっ
ていなかった。かれを後継したペトルス・ファン・デ・フォルム牧師Ds Petrus van de 
Vormがその業を引き継いで、その年のうちにムラユ語聖書を完成させた。


トゥグコミュニティでは、誕生した当初からアジアのポルトガル植民地で使われていたポ
ルトガル語が生活言語になった。その言語は16世紀を通してアジアに構築されたポルト
ガルの通商ネットワークで使われる主要言語になり、アジアのリンガフランカのひとつに
なっていた。ムラユ語はもちろんもっと古くから東南アジア海洋世界でのリンガフランカ
だった。

異人種異民族と接触する人間は太古から複数の有力な言葉を操るのが当たり前だったので
ある。バベルの塔の罰など、そんな人間どもに何ほどの効き目があったと言うのだろうか。

その罰を与えた神はそれほどまでに人間というものを知らなかったのだろうか?多重言語
能力というものは環境が培うものであり、本人の才能や勉学努力などは最終決定要因にな
らないのだという本質を実感できないモノカルチャーの視点がそんな話を生み出したよう
に私には感じられる。マルチカルチャー人間は異文化異言語の他人をエトランジェにしな
い。[ 続く ]