「クロンチョントゥグ(6)」(2021年02月26日)

現在のトゥグコミュニティがポルトガルの子孫であることを住民たちの姓が証明している
として七つの姓がよく引き合いに出されるのだが、Quiko, Michiels, Andries, Browne, 
Cornelis, Abraham, Solomonは本当にすべてがポルトガル系の姓なのだろうか?

かつてトゥグ村マーダイカーコミュニティにはもっとたくさんの一族がいた。過去にあっ
たParela, Marcos, Mayo, Hendriks, Seymons, Da Costaなどの姓は今や絶えてしまった。
男児を得られなかった家は、娘たちを同郷の他の一族、あるいはマナド人やアンボン人の
一族の嫁に送り出すと、その一家の姓を継ぐ者がいなくなる。長い歴史の中で、そのよう
なできごとが時々起こったという話だ。


トゥグ村第一世代の23世帯は広大な土地の中に自分たちの生活基盤を設けた。それぞれ
の一族は互いに離れた場所に家を建てた。隣のファミリーの家は4キロも離れ、その間を
種々の畑や森、空き地などが埋めた。

日々の暮らしは農耕・狩猟・漁労をメインにし、狩猟はイノシシ狩りを行った。最初は村
の域内で狩りが行えたようだが、19世紀末ごろになると遠出をしなければ獲物を得るこ
とができなくなり、そのためにウジュンクロンやタンジュンカランまでイノシシ狩りに出
かけたそうだ。腕のいい鉄砲猟師が少なからずいたのだろう。

かれらはイノシシ肉で塩とトウガラシ味の干し肉dendengを作った。デンデントゥグは人
気のある商品になったが、いかんせん、ムスリムプリブミが競って買うような品物ではな
い。かれらはカンプンクマヨランKampoeng Kemajoranまで製品を売りに出かけた。クマヨ
ランのオランダ系Indoが顧客になったようだ。クマヨランへ行くには、トゥグから船で海
に出て、海岸沿いにタンジュンプリオッまで行き、上陸してから鉄道に乗ってクマヨラン
へというルートを通った。

そのデンデントゥグは既に昔語りになってしまった。しかもかなり古い時代に。遠出しな
ければ獲物が手に入らないのなら、すでに商業ベースから外れている。おまけに、ずっと
以前にかれらの狩猟は困難な状況になっていたのだ。日本軍政期にかれらの狩猟銃はすべ
て没収されたのだから。

漁労はチャクン川や海へ漁に出かけて行き、獲れたものはすべて自家消費された。トゥグ
の名を冠した食べ物はデンデンの他にドドルDodolやガドガドGaro-gadoもあり、かつては
バタヴィア住民の間で知られた食べ物だったが、デンデンと同様にドドルも作られなくな
り、ガドガドは各一族の家庭料理の中に隠れてしまった。


そんな日々の労働の合間に、かれらは音楽を奏で、歌を歌った。夜には若者たちが集まっ
て愉しみ、あるいは祝宴の場を盛り上げ、そして無聊を慰めるためにクロンチョンが演奏
され歌われた。教会でも、聖歌の伴奏はクロンチョンが担当した。オルガンがトゥグ教会
に設置されるまで、クロンチョンは教会に不可欠な存在になっていた。

このポルトガル系マーダイカーコミュニティに音楽がしみついていたのは、やはりアジア
の植民地生活にポルトガル文化が与えたものだったようだ。必然的にかれらが奏で歌う音
楽はディアトニックのもので、モール音楽が旋法やリズムに影響を与えたにせよ、ポルト
ガル文化の土壌に咲いた花だったと言えるだろう。

クロンチョンという言葉の由来は一般にこう語られている。トゥグコミュニティの先祖た
ちは仕事の合間に音楽を愉しんだ。ずっと昔に使われた楽器は四弦小型ギターのFrorenga、
三弦のMonica、五弦のJiteraで、それで奏でられる音がチュロン〜チュロンと聞こえたこ
とから最終的にトゥグで生まれたこの音楽の名称になった。[ 続く ]