「クロンチョントゥグ(9)」(2021年03月03日)

アーレントはレコード屋へ行って問題のレコード盤を25フルデンで買い求めた。ジャケ
ットにはかれの楽団の写真が大きく掲載され、Hallo-hallo Bandung, Bintang Surabaya, 
Oud Batavia, Surilangなどの収録曲のタイトルと第13巻という文字が踊っていた。そ
して音を聞いて、そのレコードは楽団の名前を騙ったものでなく、正真正銘の自分たちの
音楽であることが明らかになったのである。フランス国籍のベトナム人が詐欺師であった
ことが判明した。

アーレントはすぐに弁護士を探してそのレコードの販売禁止手続きを取った。かれは1千
フルデンをそのために出費した。インドネシアに戻ってから、アーレントは楽団仲間たち
と相談してこの事件を裁判に持ち込もうとしたものの、動きがあまり進まないまま歳月が
経過し、アーレントは1993年に60歳で世を去った。


それとは別に、クロンチョントゥグ楽団詐称事件も本当に起こっている。1980年代に
オランダで行われたトントンフェスティバルで、クロンチョントゥグ楽団のステージがあ
るという宣伝を見たオランダ在住のアーレントの弟が、家族連れでステージを見に来た。

ところがステージ上でクロンチョンを演奏している楽団メンバーの中にアーレントもいな
ければ、他の楽団メンバーもいない。よく見ると、中にひとりだけトゥグコミュニティの
者がいたが、かれはクロンチョントゥグ楽団のメンバーではない。そして他のメンバーは
すべてトゥグの人間でなかった。

弟はそのトゥグの者に、アーレントやクイーコはどうしたんだと尋ねると、「病気で来ら
れなくなったんだ。」という返事だった。後になってその話を聞いたアーレントは、「そ
の時期、オレはピンピンしていたぜ。」と弟に語っている。


当時の楽団は正当クロンチョンのスタンダード曲を採り上げて演奏し、数百年の伝統を持
つクロンチョン音楽を愛好者に満喫させてくれた。しかし世代交代とともに、楽団にも変
化が起こる。考え方の相違が楽団を分裂させることも起こる。

2005年にトゥグにはクロンチョン楽団が四つあった。Orkes Keroncong Cafrinho. OK 
Mourinho, OK Tugu, OK Tugu Ren Jayaがそれで、クロンチョンカフリーニョ楽団はヤコ
ブス・クイーコが統率していたのを弟のサムエル・クイーコが引き継いだ。

カフリーニョ楽団はプロのクロンチョン楽団として活動しており、メンバーはトゥグコミ
ュニティの者に限定していないために40人という豊富なメンバーを擁している。カフリ
ーニョの第二グループ第三グループも編成可能であり、カフリーニョ楽団が離れている場
所のステージで同時に演奏することさえ可能だ。

それと正反対なのがクロンチョントゥグ楽団だ。リーダーのアンドレ・ジュアン・ミヒエ
ルスは実父アーレント・ジュリンセ・ミヒエルスの遺志を継いで、伝統芸術クロンチョン
トゥグの保存に専心している。昔からトゥグのクロンチョン楽団はコミュニティメンバー
だけで編成されていた。その伝統を維持するために、コミュニティ外のミュージシャンを
メンバーに加えることをしない方針をとっていて、人の養成に重きを置いている。また、
クロンチョン演奏を生計のために行わないことをモットーにしているため、メンバーは勤
め人や自営業者あるいは学生などばかりだ。アンドレ自身も本業は自動車修理業やトラッ
ク配送業を生計の柱にしている。「演奏を依頼されれば、必ず受けますよ。」とアンドレ
は普段から述べている。ギャラの金額を見て受けるかどうかを決めるような商業主義はか
れの生き方ではないのだろう。[ 続く ]