「ヌサンタラのライオン(1)」(2021年03月03日)

ライオンを意味するインドネシア語singaがインドネシアで地名に使われている。バリ島
北岸の町シ~ガラジャSingarajaがそれだ。この町の歴史は古いが、もっと古いバリ島の歴
史を先に語らなければならないだろう。

西暦紀元8世紀にジャワ島中部を支配して威勢をふるった王国があった。この王国は10
世紀になって東ジャワに王都を移している。このムダンMedang王国はバリ島を征服し、ワ
ルマデワSri Kesari Warmadewaを現地に送ってバリ島の行政統治を行わせた。バリ島史に
おいては、このワルマデワ王がバリ島最初の王とされている。ワルマデワはギアニャルの
ウブッUbudに近いブドゥルBeduluに都を置いて国名をブダフルBedahulu王国と称した。ブ
ダフル王国はマジャパヒッMajapahit王国の宰相ガジャ・マダGajah Madaによって征服さ
れ、1343年にクルンクンKlungkungのゲルゲルGelgelに都を移した。

ブダフル王国の時代に、王都から各地に地方官が派遣されて現地行政が行われた。バリ島
北部の現在ブレレンBuleleng県になっている領域は~グラ・ジュランティッI Gusti Ngurah 
Jelantikが代々の領主となって統治した。ブダフル王国の地方行政首長であり、地方領主
ということになる。地元民にとってはかれが王と見なされるだろう。グラ・ジュランティ
ッという名称は代々の世襲で引き継がれたものだから、本来なら第何世という言葉が付け
られるべきものと思われる。


17世紀半ばごろ、領主グラ・ジュランティッの側室のひとり、パンジ村のスードラ階級
出身の女が子供を産んだ。グデ・パスカンI Gusti Gede Pasekanと命名された少年はすく
すくと成長したが、神通力がその子の身に備わっていることが明らかになると、正妻が産
んだ長男に領主の地位が譲り渡されなければならない伝統慣習が自分の代に守られなくな
るのではないかという心配が父親の心に湧いた。

12歳のグデ・パスカンは贅沢な領主館の暮らしから、母親と共に貧しいパンジ村に追い
やられたのである。しかし成長したかれに自ずと庶民からの人気が集まり、最終的に、ゲ
ルゲルのバリ島最高支配者に承認されて、かれがブレレンの領主に成り代わってしまった。
新王はアンルラ・パンジ・サクティI Gusti Anglurah Panji Saktiという領主名で166
0年にその地位に就いた。それがブレレン王国の発端だとインドネシア語ウィキに記され
ている。

最初、王宮は山の上のスカサダSukasadaに置かれていたが、激しい海賊の横行に対処する
ために王宮は海岸部に置くのがよいと判断して、かれは現在のシ~ガラジャの町を開いた。

勇猛果敢な王に率いられたブレレンの軍勢は海賊を寄せつけなくなり、その海賊対策によ
ってかれの名声は大いに高まり、領民からもたいへん喜ばれたという話だ。そのときかれ
は、ブギス人の船を守るために超能力を使って巨大な船を海岸に引き寄せたというエピソ
ードも語られている。しかしブレレン県史によれば、シ~ガラジャの町が作られたのは1
604年3月30日であり、それがシ~ガラジャの町の創設記念日とされている。インド
ネシア語ウィキのブレレン王国誕生1660年とはだいぶかけ離れている。

この町の名称にライオンという言葉が使われたのは、創設者アンルラ・パンジ・サクティ
の百獣の王にたとえられるべき勇猛さにちなんだものだと説明されている。ちなみにシ~
ガラジャの語順はムラユ式でなくサンスクリット式であるため、前の言葉が後に掛かって
行く。シ~ガラジャは「王であるライオン」でなくて「ライオン王」なのである。


オランダ植民地政庁がブレレン王国を征服したのは1846年で、シ~ガラジャはその当
時バリ島トップレベルの政治経済都市だった。南部のクタやデンパサルが発展するのはも
っと後になってからだ。そのために1958年までシ~ガラジャはバリ島の首府であり、
また小スンダ列島の首府にもなっていた。[ 続く ]