「ダンドゥッの系図(1)」(2021年03月05日)

元々はスタンブルStambul演劇の中で使われたデリDeliのムラユ音楽がバタヴィアでの演
劇公演に伴って流行したことから、それがダンドゥッの起源になった、とアルウィ・シャ
ハブ氏は書いている。だからその当時の歌詞はムラユのパントゥン形式になっているのだ
そうだ。中には一曲で10分も15分も、延々と歌い演奏されるものもあった。

第二次大戦前にランガムムラユlanggam Melayu別名イラマムラユデリirama Melayu Deli
と呼ばれたこのジャンルでは、アライドゥルスSM Alaydrusがまず第一人者になり、次い
で1950年代にはアライドゥルスの弟子だったフセイン・バワフィHusein Bawafieが曲
の形式にリフレーンを付けてモダン化を行い、さらにアスボンAsbon率いるミナンのムラ
ユ楽団グマランGumarangが歌詞に革命をもたらして一層のモダン化が進展し、世の中から
喝采で迎えられた。パントゥン形式の歌詞はチンタを歌うシャイル形式のものに変わって
行ったのである。


そのころ、現在のマレーシア半島部であるイギリス領マラヤで制作された映画と共にイラ
マムラユ流行歌がインドネシアに入って来て、ラムリP. Ramleeとシプッ・サラワッSiput 
Sarawakが大スターになり、ふたりが唄う歌が大いにもてはやされた。シプッ・サラワッ
は後に出た大歌手アニタ・サラワッAnita Sarawakの母親だ。ふたりが出すヒットソング
はリフレーン付きで歌詞もシャイル形式になっており、完全に時代の波に乗っていた。

ラムリは昨今のボリウッドスター、シャー・ルッ・カーンShah Rukh Khan並みの人気を取
り、ラムリ主演の映画がジャカルタのクラマッKramatにあるリヴォリRivoli映画館にかか
ると、何週間も大入りの日が継続したそうだ。ラムリがジャカルタに来たという噂が流れ
ると、かれの姿を一目見ようとして、かれが泊っていると噂されたホテルを連日女性ファ
ンが取り巻いた。ラムリに憧れて恋の病に落ちた17歳の娘の話が新聞に載ることさえ起
こった。それはランプンのウダナWedanaのお嬢さんだそうで、ひどく衰弱して危ない状況
になっているという記事だった。

国民的スターになったラムリにマレーシア政府は貴族の称号タンスリTan Sriを与え、ま
たかれの没後にかれの名前を道路と公園に冠している。


インドネシアの歌謡界で当時トップクラスにいたサイッ・エフェンディSaid Effendiがム
ラユ楽団Orkes Melayu「イラマアグン」Irama Agungを従えてマラヤ製イラマムラユをカ
バーした。その後を追って、ジャカルタにさまざまなムラユ楽団が誕生して大衆音楽界の
覇を競ったことから、自ずとイラマムラユのジャンルは厚みを増した。

ジャカルタで、広範に散らばるカンプンでの祝祭や催事にムラユ楽団が招かれて、大音量
で深夜までイラマムラユ音楽が流され、若者たちがジョゲッで踊り狂う習慣はその辺りが
起源になったのかもしれない。それよりもっと多かったのは、結婚式での余興仕事だった
そうだ。結婚式と言っても、もちろん立食パーティー式の披露宴であり、パーティーの賑
わいに音楽が演奏され、招待客の中の男性ばかりがジョゲッしたという話だ。国営ラジオ
局RRIにもムラユ楽団はしばしば出演した。

その時代に名前を挙げたムラユ楽団には、フセイン・アイディッHusein Aidit率いるクナ
~ガンKenanganと歌手のハスナ・タハルHasnah Thaharにジョハナ・サタルJohana Sattar。

またフセイン・バワフィ率いるチャンドラレラChandralela所属の歌手はムニフ・バハス
アンMunif Bahasuan、マスハビMuhammad Mashabi、エリヤ・カダムEllya Khadam。この楽
団には後にオマ・イラマOma Iramaとエルフィ・スカエシElvie Sukaesihが加わっている。

このジャンルで永遠の金字塔をうち建てた大歌手エリー・カシムElly Kasimを擁した、ア
スボン・マジッAsbon Majid率いるミナン人のムラユ楽団グマランGumarang。アブドゥル
・ハリッAbdul Chalik率いるブキッシグンタンBukit Siguntangは歌手スハイミSuhaimiを
擁し、ファウジ・アスランUmar Fauzi Aselan率いるシナールメダンSinar Medanもイラマ
ムラユの世界を賑わした。名前はメダンでも、この楽団はジャカルタのサワブサールに本
拠を置いた。[ 続く ]