「ヌサンタラのライオン(4)」(2021年03月08日)

さてインドから中国に、仏教と共にシンハの観念がもたらされたと想定しよう。きっとヌ
サンタラと似たようなことが中国で起こったはずだ。しかし中国人は言葉として獅を選択
した。英語ウィクショナリーによれば、その文字は漢の時代にペルシャ語に由来して採ら
れたとのことで、ライオンを意味するペルシャ語の音スールやセールが古代中国音のスー
やセーに該当する獅の文字にあてられたと説明されている。しかし中国での言葉がペルシ
ャ起源であったとしても、文化的な面においては、インドのシンハが強く影響したのでは
あるまいか。中国でも昔は獅子の像を公私のさまざまな場所に置いていたという話があり、
インドやヌサンタラでも似たようなことが行われていたから、その面に太いつながりが感
じられるのだが、ペルシャはいったいどうだったのだろうか?

獅という文字は福建語でサイと発音されて、獅子舞を意味するインドネシア語バロンサイ
barongsaiの中に使われている。中国で獅子は厄除けと招福のシンボルになった。祝祭に
獅子舞が演じられるのはそれが最大の目的だろう。インドネシアでもバロンサイは、その
曲芸的な魅力が華人ばかりかプリブミ大衆をも魅了しており、いかに華人嫌いのプリブミ
でもドゥクドゥクモ〜ンのリズムを聞くと尻がこそばゆくなってくるようだ。


バロンサイのサイが獅に由来しているのに対してバロンは、カウィ語にシンハバロンがあ
るように、サンスクリット語に由来するものだったのだろうか?サンスクリット語に堪能
な方にご教示願いたいものである。なにしろ、barongを表すサンスクリット文字を入れて
オンライン辞典を調べると、バリの伝統舞踊に出てくる聖獣という説明に出会うだけなの
で、五里霧中という感触である。

インドネシア語や英語のネット情報によれば、バロンはヌサンタラの語彙のように思われ
るが、語源に関する定説があるわけではない。ジャワとバリで神話に登場する四つ足動物
バロガンbaronganのことだと言われても、そこからどう遡ればよいのか見当もつかない。

一説では、古代ムラユ=ポリネシア系語彙であるbaruangだと主張されていて、バルアン
は現代インドネシア語beruangになっており、それは熊を指している。福建語でライオン
踊りを弄獅lang-saiと言うそうで、そこに由来しているという説もあるのだが、もしそう
であるならムラユのひとびとは普段からlとrの区別ができているのだから、balongsaiと
なるほうが自然ではあるまいか。


現代インドネシア語では、カウィ語のsinghabarongはsingabarongに変化し、ジャワ語で
はシ~ゴバロンと発音される。シ~ゴバロンは東ジャワ州ポノロゴPonorogoに伝わる伝統芸
能レオッreogに登場する。

シ~ゴバロンは、トラの頭と羽を広げた孔雀を飾った巨大なコスチュームを担いだ、レオ
ッで一番派手な出演者であり、常にレオッのシンボルとして扱われるから、その名前がレ
オッであり、それが主役だと思ってしまうひとも現れるのだが、本当はそうでない。

その演者が務める役の名前がシ~ゴバロンであり、バロ~ガンbaronganと呼ばれる縦横およ
そ2.3メートルで40〜50キログラムも重量のある巨大なコスチュームを担いでシ~
ゴバロンを演じるのだ。バロ~ガンは木と籐の枠にトラの頭と孔雀を載せ、トラの皮を張
ったもので、色鮮やかに装飾されているので、観客の視線は自ずとそこに集まって来る。

この演者はバロ~ガンを歯で噛み、手を枠に添えて保持しながら踊るから、顔はコスチュ
ームの裏に隠れてしまい、あたかも巨大なトラが人間のような手足を持って動いている印
象を見る者に与えることになる。そう、シ~ゴバロンとはトラの王様なのである。もちろ
ん、手を枠から放すこともあるので、そのときは口と歯だけが40〜50キロの重量を支
えることになる。[ 続く ]