「1970年代の青春革命(1)」(2021年03月17日)

1970年代の若者たちがどんな姿をしていたか、覚えているだろうか?男は長髪が垂れ
下がり、やせた身体にアーミールック、ベルボトムパンツにかかとの高い靴。女は編み上
げヘアーにミニスカートで膝丈のブーツだ。ワオッ・・・

長髪とフリースモーキングに憧れた、トノ・ビッグマンの綽名の方が有名なスパルトノ・
スパルトは1970年、南ジャカルタ市ブロッケスBlok Sの高校Perguruan Taman Madya
に入った。その高校はジョン・メイオールハイスクールという別名で知られていた。生徒
の長髪が認められていたからだ。トノはそのころ、ビッグマン・ロビンソンという名のバ
ンドに加わっていた。

その時代、長髪を背中まで垂らしたイギリスのブルースミュージシャンであるジョン・メ
イオールはインドネシアで、特にジャカルタとバンドンで、トップスターに祭り上げられ
ていた。かれが若者たちのアイドルになったのは1960年代末から70年代初にかけて
のころだ。

バンドンにもジョン・メイオールハイスクールと呼ばれる高校があった。その学校も生徒
の長髪を認めていた。その学校はナリパンNaripan通りにあった、とバンドンで誕生した
さまざまなロックグループをサポートした広告業界者トリアワン・ムナフは言う。かれが
サポートしたのはLizzard、Giant Step、Gang Of Harry Roesliなどのバンドだった。

自由な精神を希求するのは若者の常だろう。指図されることを嫌い、自分の創造性を信じ
て自分の脚で立とうとする。~ガッ~ギッ~ゴッ音楽を禁止して西洋文化を国民社会から追
い払おうとしたオルラレジームから解放されてまだ間もないころがその時代だったのだか
ら、若者たちが西洋世界で起こっていることを真似して時代と青春の息吹を満喫しようと
したのは自然の成り行きだったにちがいあるまい。エスタブリッシュメントを否定するフ
ラワーパワーの精神に押された音楽とファッションが1970年代のインドネシアの若者
たちの心を満たした。
「あのころのオレたちはただ表皮を真似していただけで、エッセンスからはほど遠かった。
単なるファッションとして長髪をやっていただけだ。」とふたりは懐古している。

バンドンの若者たちはディパティウクルDipati Ukur通りにあるアップルシューズの店を
訪れて、ナウいものになったヒールの高さが10〜15センチもある靴を続々と買い求め
た。その靴はエキゾチックシューズと呼ばれ、それを履いた者たちの中に足を捻挫する者
が少なくなからず出た。靴ばかりか、バンドをやっている青年たちはエキセントリックで
エクスクルーシブな服もアルケティリAlketiri通りのプリマブティックやジュランJurang
通りにある、刺?で有名なダマン縫製店で注文した。


ジャカルタもバンドンと大差ない状況だった。ジャカルタの青年たちも、メンテンのミッ
クマックMic Mac、パサルバルのトプシーTopsy、チキニのヒアスリアスHias Riasなどの
ブティックをはしごして、西洋の最新ファッションを渉猟した。かれらが求めたのは、オ
ランダの音楽雑誌PopfotoやMuziek Expressで目にした、西洋ミュージシャンやグループ
が着用しているファッションだった。

西洋の若者たちの自由なライフスタイルが引き起こしたモラル頽廃を大勢の人々が非難し
ていたにもかかわらず、青年たちがそれに追随しようとしたのは、時代遅れと言われたく
なかったためだったことを認めなければなるまい。そして事態はぺスタダヤッ、街中カー
レース、フリーセックスなどの社会現象へと向かった。モティンゴ・ブシェの著作クロス
ママが70年代の代表的なポップ小説のひとつだったと語る者もいる。[ 続く ]