「デリ、スマトラ(2)」(2021年03月30日) ハル王国の王都は17世紀初期にデリDeliと名を変え、ハル王国もデリスルタン国と呼ば れるようになる。その領土はもっと後になって、デリの地Tanah Deliという名前でヌサン タラの人口に膾炙した。 一方、17世紀前半にデリの王都の近辺にメダン村が開かれ、その一帯がメダンデリと呼 ばれるようになった。それがだんだんとメダンだけしか言われなくなって、デリの名称が 消えてしまったというのがメダンの町の由来らしい。 であるなら、住民たちの無精がデリという町の名前を消滅させてしまったようにその説明 は理解できるわけで、人間の無精が町を滅ぼしたという古今に稀なできごとの犠牲者がデ リの町だったという話ができあがる。 デリスルタン国の王宮であるマイムン宮殿Istana Maimunがエキゾチックな姿をメダンの 町の中に誇示していることを、メダン=デリであったことの証明と受取ることはできるだ ろう。マイムンはアラブ語で幸運・幸福を意味しており、しばしば男性の名前に付けられ る。女性形はマイムナMaimunahで、預言者ムハンマッの最後の妻になった女性がその名前 だった。 ムハンマッの奥方の話はともあれ、上の話は歴史の奥行に欠けている気がする。なぜなら、 マイムン宮殿が完成したのは1891年5月のことであり、農園事業を行うオランダ人に 領土内の土地を貸して財政面で羽振りが良くなってからの時代だから、最初のハル王国の 王都が、あるいはデリスルタン国の王都が、本当にメダンにあったのかどうかを確定させ るのは、材料が不足しているよう感じられるのである。 別の資料によれば、1841年にオランダ植民地政庁との関係が開始される以前のデリス ルタン国は今のブラワンBelawan港に近いラブハンLabuhanのエリアを領土とする貧相な国 だったそうだ。現在のメダン市の西北に隣接しているデリスルダン県ラブハンデリ郡がど うやら、デリスルタン国の中心部だったように思われる。名前がラブハンとなっているの だから港があったわけで、多分メダンの町の中心を貫通しているデリ川西岸までその領地 が広がっていたのではあるまいか。 マイムン宮殿はそこから18キロほど南に離れており、マイムン宮殿の場所がラブハンデ リ郡から少々離れているために、元々のデリスルタン国の領地内だったようには思えない のである。 ペナンにマラヤ方面基地を置いたイギリス東インド会社の現地責任者ウィリアム・フィリ プスが、オランダの統制がまだ弱いスマトラ島をイギリスのものにしようとして行ったい くつかの動きの中に、部下のジョン・アンダーソンにデリのスルタンへの接触を命じた一 件があった。 1822年にアンダーソンはデリのスルタンと面会したが、そのときのスルタンの様子は 衛兵がたったの5人で、しかも持っている槍はてんでんばらばらのあり合わせのものだっ たと書き残している。更にスルタンは宮殿すら持っていなかったとも書いているから、ひ ょっとしたらデリのスルタンは農園ビジネスで発展したメダン南部に後から乗り込んで行 ってマイムン宮殿を建てたのかもしれない。[ 続く ]