「デリ、スマトラ(3)」(2021年03月31日)

メダン国立大学歴史学者イッワン・アズハリ教授は、オランダ人と手を組む前のデリのス
ルタンは権勢のそれほど大きくない一領主でしかなく、細分化された域内各地の地元支配
者たちを従えるほどの支配権を打ち建てていなかった、と語る。後にデリの地と呼ばれる
ようになるその域内にはスンガルSenggal、スルバニャマンSerba Nyaman、ハンパランペ
ラッHamparan Perakなどの小王国がスルタンの支配下に落ちないまま、スルタン国と併存
していた。

ところが、ニンハウスJacob Nienhuysに20年間の借地権を与えてタバコ農園を開くこと
を許可した結果、域内支配の様相ががらりと変化した。ニンハウスの興したデリ会社Deli 
Maatschappijの開いたデリタバコ農園で産出されるタバコ葉が、ヨーロッパ中を震撼させ
たのである。その葉は葉巻タバコ用の最高品質種と評価されて、ブラジルやキューバ産の
ものを追い落としてしまったのだ。ニンハウスが1869年にはじめてタバコ農園を開い
てからの40年間に、なんとヨーロッパ人の農園が140もデリの地に林立した。

更には北スマトラの東海岸部一帯でタバコばかりかゴムやパームヤシ農園なども開かれる
ようになり、その一帯は東スマトラと呼ばれて、ダラーランドdollar landの異名を冠せ
られるようになる。正確にはランカッLangkatからラブハンバトゥLabuhan Batuまでの地
域が東スマトラだ。


デリで農園事業を行おうと、ヨーロッパ資本が続々と東インドにやってきた。ところがデ
リの土地は複数の地元領主の支配権のもとに分裂している。その状況に対処するために植
民地政庁が立てた方針は、ひとりの覇者を作って全域を統治させ、その者に土地使用の許
可を出させることだった。そして、植民地政庁が仕立てる覇者の白羽の矢は、デリのスル
タンに向けられたのである。なぜかと言えば、デリのスルタンの領地に東スマトラでトッ
プの港があったからだ。そこからペナンやイギリス領マラヤ半島西岸部への輸出が行われ
ており、バタッBatak人が行っている、内陸部で産するガンビルgambirの輸出も、その港
から船積みされていた。

農園事業のために土地を借りたいヨーロッパ人資本家はデリのスルタンと交渉し、その合
意内容を受けて公証人が作る契約書に双方がサインし、その結果が政庁の土地台帳に記録
される。そのプロセスを政庁が監督し、苦情があれば仲介するのである。ヨーロッパ人の
側にはきわめて合理的なシステムだったが、デリのスルタン以外のプリブミ支配者たちに
とってはとんでもない不合理だった。

オランダを後ろ盾にしたデリのスルタンが好き勝手にわが領地をヨーロッパ人に貸すこと
を許せるわけがない。だが小領主たちの反抗が反乱の形をとれば、その先はオランダ植民
地軍が出て行って滅ぼすまでのことになる。おかげでデリのスルタンがどれほどありがた
い目を見たことか。しかしスンガルの領主ダトゥDatukスンガルが率いた反乱には、さし
もの植民地軍も手を焼いた。1872年に始まった反乱が完全に平定されるまでに30年
もの歳月を必要としたのである。

こうしてデリのスルタンとデリの地は大いに繁栄したのだが、土地支配権に関する大混乱
が後世に残されてしまった。デリの外国資本農園会社はインドネシア共和国独立後に国有
化されて、国有農園会社に変身した。ところが外資農園会社が結んだ契約コンセッション
の期限が来た時、国有農園会社が契約更新を行うべき相手が定まらなくなってしまったの
だ。

形式上はデリのスルタンの子孫と考えることも可能だが、オランダが引いた横車の傀儡を
共和国政府が承認するのかという批判は論を待たないだろう。スンガルやハンパランペラ
ッのダトゥの子孫という意見もあれば、現実にそれらの農園を成り立たせてきたジャワ人
農園労働者の子孫たちが作る組織に権利があるのだという議論、更にはタパヌリ人までが
権利を主張するようになって、政府の方針はいまだに定まらないありさまになっている。
[ 続く ]