「デリ、スマトラ(4)」(2021年04月01日)

話を黄金期に戻そう。当然のことに、農園作業者需要が激増した。ところが、東スマトラ
の地元民であるムラユ人は身体を使って金を稼ぐことを嫌がった。アチェと同じように、
肉体労働は奴隷の仕事という通念がそこにもあったのかもしれない。デリにできた第一号
農園は、応募した少人数のムラユ人で満たしきれない不足を補うためにペナンで華人とイ
ンド人を募集した。肉体労働者に続いて、農園経営者側の管理職も必要になった。作業者
の教育と管理、作物の品質管理、経営事務、そして支配人とその補佐役たち。更には作業
者の健康管理を行う医者や作業者子弟のための学校教員までも。経営者側の人間はヨーロ
ッパ人を主体にして、華人やプリブミのインテリも雇用された。

そのうちに、東スマトラに向かう人間の波は、ジャワ島からのものがほとんどを占めるよ
うになった。インテリから肉体労働者まで、さまざまな階層のジャワ人が東スマトラに移
住し、大勢がそこに住み着いて子孫を残した。東スマトラの住民人口の中でジャワ系住民
は現在でも大きい比率を占めている。

ブディウトモ運動創始者のドクトル・ストモは東スマトラで医師として活動した履歴を持
っており、またジャワ人医師ピルンガディPirngadiの名をとどめる病院がメダンにある。
タン・マラカも教員として一時期を送ったことがあり、南タパヌリのマンダイリンからも
教育者たちがやって来た。

西スマトラのブキッティンギBukittinggiで教員養成学校を卒業し、オランダの教員養成
学校で6年間学んだタン・マラカは1919年12月から1921年6月までスネンバカ
ンパニーSenembah Company所有の農園が作ったインドネシアプリブミ子弟のための学校で
教鞭を取った。

かれはそこで目にしたクーリー(苦力kuli)と呼ばれる農園労働者の悲惨な生活を著書の
中に書いた。「東スマトラは資本家にとっての天国であり黄金郷だが、同時にプロレタリ
アート層にとっては汗と涙と死の地獄でもある」と。

資本家が行政と手を組んで行う人間性に欠けた労働搾取がだれはばかることなく展開され
ていた時代のことだ。デリ農園労働者のための哀歌は、実際にデリの農園で働いた体験を
持つ女性作家マデロン・セイケイ=ルロフスMadelon Szekely-Lulofsがそれをテーマにし
たいくつかの作品の中で謳い上げた。


マデロンはデリの農園で勤務するオランダ人の夫に伴われて移住し、農園で働いていたが、
夫の同僚であるハンガリー人のラスロ・セイケイの人柄に惹かれて愛し合うようになり、
最終的に夫と別れてハンガリー人の妻になった。夫が加担している非人道的な労働搾取の
問題がその裏側に絡んでいたのかもしれない。

マデロンが実態を暴いて書いた小説Rubberは1931年、Koeliは1932年にオランダ
で発表され、既にオランダで社会問題になっていたデリ農園問題に更なる一石を投じる結
果をもたらした。

小説「クーリー」はひとりのジャワ人農園労働者の境遇を描いたものだ。ジャワで貧困生
活から脱け出そうと模索していたルキは、黄金郷であるデリの地で働けば金持ちになって
戻って来れるという話に期待をかけて、労働者募集に応じた。

ところが、いざデリの農園に着いてみると、ジャワで聞いた話とは大違いだった。まるで
家畜を扱うようなマンドルの荒っぽい仕打ちに驚かされ、寝食の場は昔の生活と負けず劣
らずの貧しさで、食事はほんのわずかしか与えられず、自分の金で腹を満たすしかないが、
わずかな給料をそれに当てれば衣服を買う金も残らない。金を蓄えて故郷に錦を飾るなど
というのがとんでもないホラ話であることが分かった。[ 続く ]