「スエーデン人リンネ(後)」(2021年04月06日)

リンネの才能は、世間一般のひとびとよりも先に、社会的な高位者が目を向けた。カール
・グスタヴ・テシンCarl Gustav Tessin伯爵がバリスコレジオBergs Collegioの講師にか
れを抜擢した。王宮と政界に暮らす伯爵の人脈がリンネの未来への扉を開いたのである。
王宮執事長がリンネをお抱え医師に任じた。1739年、かれはスエーデン科学アカデミ
ーを設立した。

こうなっては、サラの父親ももはや何も言うことはない。早く娘をもらってくださいと頭
を下げるばかりだろう。二年後、かれはウプサラ大学の医学部教授になった。

ウプサラ大学で教鞭を取りながら、リンネはその時代の植物学の先端を歩み続けた。生徒
の間からこの教授の信奉者が続出した。世界をその手の中で操るようになったヨーロッパ
のその時代、生物学も世界に目を向け、視野を広げるのは当たり前のことだった。知識欲
はおのずとヨーロッパの外の世界に向かってほとばしって行ったのである。


リンネ自身が世界に乗り出すことはなかったようだが、かれの弟子たちがその役割を果た
した。そのひとりがカール・ピーター・テュンバリCarl Peter Thunbergだ。テュンバリ
は1775年5月と1777年6月の二回、ジャワを訪れている。テュンバリがアムステ
ルダムで学業中に、教授がアジアアフリカの保有地である南アフリカ・セイロン・ジャワ
に調査に行くよう勧めた結果だ。かれは1771年12月、VOCの船でオランダを発っ
た。

テュンバリはボゴールのメガムンドゥンMegamendungにある洞窟を訪れて、ツバメwaletを
採集した。中華料理の食材になる「ツバメの巣」を作る、あのツバメだ。このツバメには
Aerodrums fuciphagusという学名が付けられた。


スエーデン東インド会社のヨテボリ号が1743年に広東に向けての航海途上でバタヴィ
アに寄港した話は「ヌサンタラのスエーデン人」(2020年09月30日)で既述した。
そのときもリンネの弟子が乗り組んでいたようで、弟子は各寄港地で目にした動植物を記
録し、あるいは標本を持ち帰ることに努めた。それに加えて、広東から茶木をスエーデン
に持ち帰る使命をも与えられていたそうだ。リンネは茶木をスエーデンで育てることを夢
見ていたらしい。

しかしそう簡単に茶木をスエーデン人に持ち帰らせてくれる土地はなかったようで、弟子
たちはたいてい茶木の標本を持たずに帰国した。弟子のひとりパール・オスベッキのプリ
ンスカール号による旅行は大きい成果の上がった旅だった。オスベッキは多数の記録や標
本を持ち帰ってコレクションを増やし、リンネを喜ばせた。しかしリンネの夢だった茶木
はどうしたことか、オスベッキが手に入れて船に積み込むよう手配してあったにも関わら
ず、船の中に持ち込まれていなかったという話になっている。


植物だけでなく動物についても分類体系を作る以上、そこに人間も含まれて当然だ。リン
ネは人間にHomo sapiensという名称を与え、その下部分類をamericanus, asiaticus, 
afrikanus, europeanusとした。

そして各項目の特徴を次のように書いた。
アメリカヌス: 皮膚は赤色。頑固で怒りやすい。
アシアティクス: 皮膚は淡色。吝嗇欲張りで戸惑いやすい。
アフリカヌス: 皮膚は黒色。緊張感なく、粗野。
ヨーロピアヌス: 皮膚は白色。優美で想像力を持つ。

これがヨーロッパ人の白人優越主義の形成に一役買ったのは疑いあるまい。ただし、そん
な言葉に触発されてヨーロッパ人が有色人種の征服と支配、そして暗黒世界の文明化にま
っしぐらに突進するようになったとは思えない。単に自らの行為を正当化する材料にされ
ただけのように思われるのだが。

ともあれ、人間をサルの仲間の最高位に位置付けた分類法が宗教界から猛烈な反発を受け
たことは想像に余りある。「アダムとイブが食べた木の実がリンゴだって?そんなはずは
ない。かれらが食べたのはバナナだったのだよ。」というのはそのときの反論だったのか
どうか?

リンネが1778年に生涯を閉じたとき、7千7百種の植物と4千4百種の動物が学名を
持っていた。[ 完 ]