「デリ、スマトラ(7)」(2021年04月07日)

ムラユ語が地域のリングアフランカになった。1926年に開かれた第一回の青年会議に
参加した東スマトラの青年たちは全員がムラユ語を話せたが、ジャワ代表団メンバーの中
にはムラユ語での会話が不便な者も垣間見られたという話もある。ジャワ語しか知らなか
ったジャワ人がメダンに来て暮らせば、ほどなくムラユ語が身に着くのは当たり前のこと
だった。

プカロ~ガンやソロのバティック業界者も経済成長著しい東スマトラに市場を求めて進出
し、実際にそこがかれらにとってヌサンタラでトップの市場になった。それに関連してサ
レカッイスラムSarekat Islamが勢力を強めた。ブディウトモがブラワンで大会を開いた
とき、マンダイリンからブディウトモ会員になりたいグループがやってきている。そのよ
うにして、東スマトラ住民の間に民族独立を目指す政治意識と運動が高まっていった。

インドネシアの中でそのような変化を体験した地域は他にない。経済面での激しい変化が
デモグラフィを変化させ、政治面での様相を変えて行った。そのような土地はヌサンタラ
の中で東スマトラが代表格である。イッワン・アズハリ教授はそう結論付けている。


その東スマトラ地方はムラユ人のエリアだった。内陸部のトバ湖を中心にする高原地帯は
バタッBatak人の領域である。オランダ植民地政庁は平地部のムラユ人と高原部のバタッ
人を差別していた節がある。ムラユ人の頭を撫で、バタッ人は後進的蛮族と見なしたよう
だ。低カーストに置かれたバタッ人がそれに反応しないはずがない。デリの地の経済発展
は高原部のひとびとをも華麗な宴の中に引き寄せた。

オランダ政庁は最初、ムラユとバタッのディコトミーを、居住地域を基準にして行った。
言語・衣服その他の文化的な様相にもとづいて、ムラユ人が住んでいるエリアはどこであ
り、バタッ人はどこであるという決め方だ。ところが、バタッ人がムラユ文化に染まって
ムラユ化する傾向が生じると、最初のディコトミーとの整合性が失われて行った。その結
果、政庁は文化的習俗的なことを無視して単純に地理的境界線を引きなおした。植民地統
治行政のために線引きは不可欠なのであり、住民がどうだからどちらに入れるということ
が政庁にとっての本質的なことがらではなかったのだから。


デリの地に農園が林立するようになって、バタッ人がその労働力を供給したと書かれた論
説がある。農園クーリーになったバタッ人がゼロとはだれも思わないだろうが、デリの農
園労働者のマジョリティがバタッ人で占められた時期が本当にあったのだろうか?

上でムラユ人は肉体労働を嫌ったと書いてはいるものの、ムラユ人農園クーリーが徹頭徹
尾ゼロだったわけでは決してない。パーセンテージは低くとも、地元ムラユ人の中に農園
クーリーになった人間もいるのである。

最初、ニンハウスは農園労働者の調達を地元で行ったが十分な人数が集まらず、ペナンで
募集を行ってインド人や華人を集めた。ところがそんなことをしていては調達経費が馬鹿
にならない。そのために募集をジャワに振り向けた話が有力なのだが、その論説ではバタ
ッに振り向けたように書かれている。

少なくとも、デリの経済発展が高原部のバタッ人をムラユ人の土地に引き寄せたことは疑
いがなく、デリの黄金期には多数のバタッ人がデリに移り住んだだろうことは大いに想像
しうるものだ。

高原から下りて平地に移り住んだバタッ人は、積極的にムラユ化した。かれらは氏族marga
名を捨ててムラユ名を名乗り、イスラムに改宗してムラユの生活慣習に従った。ムラユの
女性を妻にしてムラユ社会の一員になれば、土地に対する権利が公認される。同時にそれ
は、いつ奴隷に売られるかもしれないバタッ人としての境遇からの決別にもなった。
[ 続く ]