「ドイツ人ルンピウス(前)」(2021年04月07日)

1627年、ギョーグ・エバハート・ルンフGeorg Eberhard Rumpfがドイツのヘッセン州
ヴェタオクライスに生まれた。かれの名が世界の植物学界に遺されたのは生涯を賭けた大
著『アンボイナ植物誌』Herbarium Amboinenseによるものである。その歴史的大作の著者
名がゲオルギウス・エヴェラルドゥス・ルンフィウスGeorgius Everhardus Rumhiusとラ
テン語で書かれたために、ラテン語名の方が高い知名度を得ることになった。インドネシ
ア人はルンフィウスをルンピウスと発音するので、本稿ではそれを使うことにする。


ルンピウスの母親がオランダ語を話したために、かれにとってオランダ語は身近なものだ
ったようだ。学業を終えた若きルンピウスはオランダへ行き、ベニスとの通商に従事する
という名目でオランダ西インド会社に雇われたものの、1646年にDe Swarte Raef号に
乗組まされてブラジルのペルナンブコに向かった。当時オランダはブラジルでポルトガル
と戦争状態にあり、どのような経緯だったのか不明だが、かれはポルトガルの捕虜になっ
てポルトガルに送られたのである。

ポルトガルを離れることができたのは1649年で、かれはその足でドイツに帰り、父親
の仕事を手伝っていた。母親が1651年に没すると、ドイツを去ってオランダに向かい、
VOCに雇われた。1652年2月、かれは軍務社員の最下級オフィサーとしてMuyden号
に乗組み、東インドに向かう。

バタヴィア到着は1653年7月、そして54年に憧れのアンボイナに赴任した。アンボ
イナとは現在のアンボンのことだ。ルンピウスはVOCの軍務社員を嫌い、文民社員への
転向を願い出て許可された。手始めは二級商務員としてアンボン島北部のヒトゥHitu王国
を担当することだった。

1662年に一級商務員に昇格したかれは、長年の夢だったスパイスアイランドの植物研
究に取り掛かった。1666年にルンピウスの植物研究の重要性を見込んだヨアン・マー
ツァイカーJoan Maetsuycker12代総督はルンピウスをアンボンの総督代理の地位に据え
た。その仕事に専念できる態勢をルンピウスに与えたのである。

かれはアンボンの娘を妻にし、妻の助力を得てアンボンの植物図鑑を作り始めた。最終的
にかれが完成させたアンボイナ植物誌には、2千を超える植物が精緻な画像に特徴や効用
などが書き添えられて掲載されている。

そのころ、かれはヨーロッパの学術界と頻繁に通信を行い、そこからさまざまな手引きを
得たようだ。後にリンネが分類法を確立させたとき、アンボイナ植物誌は多大なヒントを
リンネに与えたと言われている。


1670年ごろまで、ルンピウスの仕事はたいした障害もなく、とんとん拍子に進んで来
た。だがその後、不運とそれを乗り越えるための不撓不屈の意志を証明することになる悲
劇の時期がかれにまとわりついてきたのである。

かれの視力を低下させてきた緑内障によって、かれはついに失明してしまった。かれの一
家はそれまで住んでいたヒトゥからアンボンに引っ越した。かれの妻と子供たちがかれの
ライフワークの完成に協力し、バタヴィアからも支援の手が差し伸べられて、かれの植物
研究の完成をサポートした。給料が停止されることもなく、それどころか秘書とイラスト
レータが派遣されてルンピウスの仕事を助けたのである。植物の特徴や効用をイラストに
添えるために、かれは原住民から話を集め、それを子供や秘書に筆記させた。

その次にかれを襲った悲劇は、かれの仕事の重要な協力者だった妻スザンナSuzannaと娘
の死だった。1674年2月17日午後7時半ごろ、穏やかな月明の下で中国正月前夜の
祝祭気分に包まれていたアンボン島一帯を猛烈な地震が揺さぶった。ルンピウス家の建物
が崩れ、失明したかれを励まし、助け続けていた妻と娘がその下敷きになってしまったの
である。[ 続く ]