「デリ、スマトラ(終)」(2021年04月08日)

高原部の一地区の首長が海岸部に移住してムラユ化し、ムラユ社会で公認され、元の高原
地区の部落がムラユ化した首長への依存度を深めるようなことすら発生した。元の部落の
経済生活は改善されたにちがいあるまい。ムラユ化したことで元のバタッ社会からの完全
な絶縁が起こったということではなかったようだ。ムラユ化したから脱バタッであるとい
うようなステレオタイプ視は実態を正しく投影するものではない。

かれらがたいていムラユ名にアイデンティティを変えたのは、バタッ人名がムラユ社会で
蔑視の対象になっていたからだった。オランダ人が一目置くムラユ人でなく、文明を有す
るムスリムでなく、粗野で優雅を解さず、人食い人間である山奥の文明化しない田舎者と
いうのがその蔑視の内容だったように思われる。


ムラユ化というのは、つまりイスラム化である。植民地政庁はその現象に脅威を感じた。
バタッ人のムラユ化をやめさせなければならない。政庁はバタッ人の種族意識を高揚させ
ることでムラユ化の動きを弱める方針を建て、バタッの慣習法をまとめて法制度化させた
裁判制度の開始に着手した。カロKaroでは1902年に地域慣習裁判法規が地元の言語で
作られて施行された。

また現地に監視官を置いてバタックとムラユ間の、主に土地境界線に関わる紛争をバタッ
の立場から調停する任務を負わせた。社会的な観念がムラユ上位バタッ下位の風習を作り
上げ、ムラユの権威がデリのスルタンによって代表されている状況が誤ったものの見方の
産物であることを、監視官はバタッ社会に認識させようとした。バタッ人はデリのスルタ
ンの支配下にあるのではないのだから。


植民地政庁はもともと、宗教の勢力動向にあまり関心を払わなかった。しかしバタッ地方
で進行している状況が宗教を抜きにしては政庁側によい結果をもたらさないことが明らか
になると、こんどは宗教を使ってバタッをオランダ側に着ける方針を政庁は選択した。イ
スラムの布教活動を非合法にし、キリスト教の布教を行政が後押しするのである。

1878年、政庁はバタッ地方でイスラム教徒が役人になることを禁止した。キリスト教
布教団は政府の協力を得て、トバ湖南部地域からキリスト教徒プリブミをシマル~グン地
区に移住させた。かれらは農業を営んだり、役人にもなった。

次いで、バタッ地方でイスラム教徒がワルン(飲食店)を開くことを禁止した。ワルンは
イスラム布教の重要な足掛かりになっていたためだ。それ以来、飲食店の営業許可はキリ
スト教団に支持された者にのみ与えられた。

長引くアチェ戦争の関連においても、政庁のバタッ社会キリスト教化は絶対要件になって
いた。ヌサンタラ北端のイスラム根拠地であるアチェからバタッに対してイスラム化の動
きが密かに、且つ執拗に行われていたからだ。デリ会社支配人を務めた経験を持つクレマ
ー下院議員が議会で行った演説は、アチェ戦争に関連してバタッ地方のキリスト教化がい
かに重要性を持っているか、そのためにオランダ宣教師協会が担うべき役割が何であるの
かについて語っている。アチェがバタッをイスラム化すれば、デリの農園は風前の灯火と
なるのである。

バタッ地方にはもっと昔からイスラム布教が流れこんできていた。古くはバルスBarusの
商人たち、そしてアチェの布教と影響力、また西スマトラのパドリ戦争も影響を及ぼした。

バタッ人が容易にイスラム化しなかったのは、古来の原始宗教への固着が強かったことや、
イスラムとの経験があまりよいものでなかったことが挙げられるだろう。最終的に植民地
政庁とオランダ宣教師会がバタッのキリスト教化に成功し、バタッ人の人種的アイデンテ
ィティの中にキリスト教が位置付けられることになったのである。[ 完 ]