「アチェの分離主義(2)」(2021年04月26日) 1819年にアチェはイギリスとマラッカ海峡の安全保障に関する条約を結んだ。フラン ス領(旧蘭領)東インドを握ったイギリスにとってオランダに服属していなかったアチェ が攻守同盟を求めて来たのだから、決して悪い話ではない。ただ、その時、旧蘭領東イン ドをイギリス政府が新興同盟国になったオランダ王国に全面返還することになろうとは、 イギリス人の多くも想定していなかった印象が濃い。 ともあれ、その条約の結果だろうか、ヌサンタラの大部分がオランダ王国植民地として再 出発したあと、オランダとイギリスは相互にアチェに対する不可侵を合意した。それが2 0世紀になるまで、アチェをしてヌサンタラで数少ない名実共の独立国の地位を保たせた 一要因である。「インドネシア=350年間のオランダ植民地」説を否定する論拠のひと つがそのアチェのたどった歴史である。巷にあるその説はどうも被害者が被害を誇大に言 い立てる傾向が生んだものであるように思われる。 しかしオランダは1873年にアチェへの軍事侵略を行った。イギリスとアチェの攻守同 盟は破棄されていなかったから、条約の紙に書かれた言葉だけを順守するなら、イギリス はアチェ防衛のために参戦しなければならないはずだ。しかしこの世界が正直者の形式主 義者によって動かされているのでないことを、人類史の中に散りばめられた太古からのエ ピソードの山なす先例通りのことがまた行われたのを、われわれはふたたび実見すること になった。 だが一方、オスマントルコはオランダの非を、言葉を尽くして打ち鳴らした。トルコのマ スメディアはオランダの悪逆無道を全世界に言いふらしたのである。ただ残念なことに、 オランダが住んでいるコミュニティであるヨーロッパ世界で、トルコ人の批判はあまり真 剣に取り上げられなかったようだ。侵略的だったその時代の空気というものも、もちろん ある。誕生してから一切が崩壊するまでの間に大日本帝国があのようなことを行ったのも、 その空気の下だったのだ。 オランダももちろん、イギリスとの衝突など望むはずがない。オランダはアチェ征服の準 備のひとつとして、全スマトラ島のオランダ併合をイギリスに承認させることを忘れなか った。その協定は1871年に結ばれている。 アチェ征服の前哨戦は、アチェの海賊に対する規制という謳い文句によるオランダ海軍の 海上封鎖から始まった。アチェのスルタンは状況を有利に導こうと考えてシンガポールに 使節を派遣した。使節は米国・フランス・トルコの領事を訪問してオランダの行動に対抗 し得る共同戦線の構築をこころみたものの、結果はアチェの孤立無援が証明されただけだ った。 満を持したオランダ植民地軍のアチェ進攻が1873年3月26日に開始された。3千人 の兵力を投入したその第一次進攻は、しかし失敗に終わった。その年11月、1万3千人 を動員した第二次進攻が実施されたが、アチェは屈服しなかった。 オランダ植民地政庁とアチェ人の戦争は全部で4回繰り返された。第一幕は1873年、 第二幕1874〜1880年、第三幕1884〜1896年、第四幕1898〜1942 年。それが完結したのは、日本軍がオランダ人を追い払い、捕虜収容所に入れ、オランダ 植民地軍を解散させたからだ。[ 続く ]