「アチェの分離主義(3)」(2021年04月27日)

1876年1月、植民地軍はアチェスルタン国の王都クタラジャを激戦の末に占領した。
双方に数千人の死者が出た。スルタン宮殿にオランダ国旗がひるがえったものの、スルタ
ンは降伏しなかった。オランダ側にとっては大変な予想違いだったようだ。その後何年も
軍事作戦を継続したというのに、王都の外に占領地を広げることは遅々としてはかどらな
かった。結局、植民地政庁は王都を確保したことを根拠にして、戦争は終結しアチェはオ
ランダに服属したとの終戦宣言を出したが、それは戦費が枯渇してしまったことや外交面
での見栄などが複雑にからみあったオランダ側の一人芝居でしかなく、アチェ人にとって
サビル戦争は少しも終わってなどいなかったのである。

死を恐れずに勇猛果敢に敵の攻撃に向かって行くアチェ人の姿は、ディポヌゴロ軍、ある
いはパドリ軍、でなければバリ人部隊やボネの騎馬兵団のようなものではない。だが自信
に満ちあふれ、運命に敢然と立ち向かい、自分の土地の主権を維持しようと武器を手にし
て襲い掛かるアチェ人は、ゲリラになるために生まれて来たような人種であった。
1895年に発表された書物「東インド戦争史」の著者でアチェ戦争に従軍した体験を持
つホイヤー歩兵大佐はアチェ人の姿をそのように描いた。


ゲリラ戦の泥沼に落ち込んだオランダ植民地政庁がその状況を打開するための頼みの綱に
したのは、東洋文化学者でオランダ政庁住民統治顧問の職に就いたスヌーク・フルフロニ
ェChristiaan Snouck Hurgronjeの知恵だった。スヌークはそのためにアチェ社会に入り
込んで実態調査を行うことにし、それを果たしたかれが政庁上層部に上げた提言を基に組
み立てられた戦略がアチェ統治者とその正規軍の壊滅を実現させた。

オランダ人スヌーク・フルフロニェはレイデン大学で神学を学ぶうちにイスラム神学に興
味を抱いてアラブ語を修得し、数年間アラブの地に滞在してハジの称号を得、稀有のヨー
ロッパ人のひとりになった。レイデン大学で教鞭を取っていたかれは1889年にオラン
ダ東インド政庁の顧問になり、東インドに移住する。

アチェ戦争で苦渋をなめていた植民地政庁はスヌークに期待をかけた。本人はアチェに一
定期間滞在して現地調査を行うことを希望したものの、それはうまくはかどらなかった。
その間、かれは1890年に西ジャワ州チアミスCiamisの原住民貴族の娘を妻にしてムス
リム家庭を築いた。最終的にかれは、1891年7月8日から1892年5月23日まで
アチェに滞在してハジ・アブドゥル・ガファルを名乗り、アチェのイスラム界指導層と交
わった。併せて、アチェ社会の実体を見極めるために、さまざまな見聞をした。

バタヴィアに戻ったスヌークは大論文「アチェレポート」を書き上げて政庁に提示した。
その中でかれは、ローラー型の力攻めでアチェ征服を行うべきでなく、スルタンの動きは
宗教指導層の指示に服す傾向があり、宗教指導層の中の政治寄り路線を好む好戦的反ヨー
ロッパ的強硬派に対する徹底的な力の誇示によってかれらの思い上がりを突き崩す方法が
アチェを服属させる面での上策であると提言している。しかし政庁は学者の希望を採り上
げるのでなく、その報告書を骨子にする戦略を構築して強硬姿勢を続けたのだ。

1903年に最期のスルタンであるムハンマッ・ダウッ・シャッがオランダ植民地軍に捕
らえられてバタヴィアに連行され、アチェスルタン国は栄光の幕を閉じた。だが統治支配
者の空白によってすら、アチェ戦争が終了することにならなかった。統治支配者が持った
正規軍が支離滅裂になってしまっても、フィサビリラ戦士たちは後から後から出現したの
である。スヌークにはその帰結が見えていたのかもしれない。[ 続く ]