「アチェの分離主義(4)」(2021年04月28日)

スヌーク・フルフロニェは生涯で4回結婚した。最初はジェッダに滞在中にアラブ女性と
結婚し、二度目がチアミスの貴族の娘、サンカナ。その妻が5人目の子供を流産して母体
と胎児が共に死亡したため、数年後にバンドンの代理プンフルの娘シティ・サディアをか
れは妻にした。1906年に東インドを去ってオランダに戻ったかれは、1910年にオ
ランダのズッフェンで牧師の娘イダ・マリアを四度目の妻にしている。

スヌークが本当にムスリムだったのかどうか、という疑問が語られることがある。188
4年にジェッダを訪れる前に、かれは真のイスラム教徒であることを証明するための審問
をアラブ側から受けた。それに通過したかれはアラブに居住し、1885年に非ムスリム
禁制の地であるメッカを訪れてハジの称号を得ている。ところが1886年にかれがレイ
デン大学の友人に宛てて書いた手紙の中に、自分はムスリムであるふりをしているだけだ、
という文が書かれているのが見つかった。その手紙は現在、ハイデルベルク大学図書館に
ある。

しかしアラブ滞在中も東インドでの十数年間も、かれはムスリムとして日々の暮らしを営
んだのである。ウンマーと呼ばれる生活共同体の中でのしきたりさえ守っていれば、帰依
だの信仰だのという精神的価値とは関係なく、その人間がムスリムとして認知されるのは
事実だ。

ムスリムの家庭に生まれ、ムスリムのライフスタイルをしつけられ、しかしアッラーにつ
いての話のほとんどはよく理解できないというムスリムであっても、ムスリムを自任して
ウンマーにおける定められた行為行動を行っているかぎり、かれは正真正銘のムスリムな
のであり、後ろ指をさされることは絶対にない。インドネシアのプリブミ(イスラム)社
会の中に入ってみれば、それが事実であることを至る所で見聞するだろう。

一日5回の礼拝を神と対面するために行っているムスリムがどれだけいるのか、それをし
つけられた社会善と習慣の実践として行っているだけのムスリムがどれほどいるのか。ウ
ンマーはまず生活共同体として存在しているのであって、宗教家や神学者が集まって作っ
た共同体ではないのである。共同体構成員の資質は千差万別で、アッラーの存在を雰囲気
の中に感じ取ってはいても、神学的な話はまるで理解の外であるという人間がいておかし
いことはまったくない。ウンマーとは宗教オリエンテーションを持たされた単なる地縁コ
ミュニティ以外のなにものでもないと言えば言い過ぎになるだろうか?

ムスリムの家庭に生まれて単に社会生活におけるイスラム式ライフスタイルを実践してい
るだけの折り紙付きムスリムと、ムスリムとして暮らした時期のスヌークとを比べて見る
なら、その両者の間に違いがあるとは思えない。


インドネシア共和国が独立を宣言したとき、植民地支配者との長期にわたる戦争で疲れ切
っていたアチェ人が喜ばなかったはずがない。もちろん植民地支配者とのゲリラ闘争は日
本軍がオランダを追い払ったから、その間休止状態にあったのも確かだ。

日本軍の対アチェ工作はそのポイントをつかんで行われたため、日本軍のアチェ進攻はき
わめてスムースに進展した。だがしかし、だからアチェ人は親日であるなどと誤解しては
いけない。日本軍政が旧スルタン国統治機構の中間支配層を郡長・村長に据えたことが日
本軍政に対する民衆の不満と反感を高めることになり、流血の対日反抗事件すら発生した
のである。

親日・反日などというレッテル貼りはものの見方を誤らせるだけだ。おまけに観念論でア
チェ人を金太郎飴の一枚岩だと見なしては、人間の姿を見失う落とし穴に落ちるだろう。
アチェ人自身の分裂抗争もその時期に水面下で進展した。日本軍政期に対日反乱事件が起
こったのもその根から生じた枝葉の部分であり、共和国独立後にさえ両派が互いに殺し合
いを演じている。[ 続く ]