「アチェの分離主義(5)」(2021年04月29日)

アチェスルタン国の歴史の中で組み立てられてきた地域統治行政システムであるウレバラ
ンUleebalang制度は地域首長を小王にした。ウレバランとは小王として領民に君臨した地
域首長を指している。ウレバランはスルタンに任命され、スルタンに貢納し、スルタン軍
の一部を構成する義務を負う。つまりウレバランとはスルタンの武将であって、知行地を
与えられてその土地の領主になるという形式にたいへんよく似たシステムがこのウレバラ
ン制度だ。ウレバランはトゥクTeukuという称号で呼ばれた。それは男性の場合であり、
女性ウレバランはチュッCutがその称号だった。

ファナティックなイスラム社会でありながら、アチェには女性指導者が輩出した歴史があ
る。アチェの統治者が経済覇権を掌中にしている大商人たちに頭を抑えられていた時期、
代々のスルタンは絶対王権を確立させることに努めて来た。富裕な大商人の中でランカヨ
(rangkayo=orang kaya)という称号を与えられた者たちが、かれら自身の蓄財に便宜を
与える国策を王宮の中で方向付けているかぎり、スルタンが絶対王権を手にすることはあ
りえない。ランカヨとは富裕な大商人に関する一般名詞でなくて、スルタンへの発言権や
王宮内での国事決定に参与する権限を認められた富裕者の称号である。

英傑スルタン・イスカンダル・ムダが出現して絶対王政を確立させ、同時にアチェの黄金
時代を築いて偉大なる繁栄とスマトラの覇者の地位をアチェにもたらしたあと、自分の男
児を処刑してしまっていたイスカンダル・ムダを後継したのは女婿のイスカンダル・タニ
であった。


イスカンダル・タニが1641年に没すると、王位継承問題でアチェ王宮は大いに揺れた。
合意された中道的な最終結論は、イスカンダル・タニの妻であるイスカンダル・ムダの実
の娘をスルタンに指名することだった。こうして女性スルタンSultanaのサフィヤッ・ア
ルディン・タジ・アララムが1675年まで王位に就き、その後の三人の女性スルタン時
代を開花させた。しかし四代続いたアチェのスルタナ時代は、四人目のカマラッ・シャッ
後の1699年に終わりを告げた。

絶対王権の軟化を望むランカヨやウレバランたちが持ち出してきた、女性スルタンはフィ
キで認められていないという反対論がその結果をもたらしたのである。その造反によって
アチェの絶対王権は弱まっていったようだ。とは言っても、アチェがスマトラの覇者の座
から転げ落ちるようなことは一度も起こらなかったわけだが。

他に、女性の軍隊司令官もいた。アチェ王宮の親衛隊はすべて女性だったそうだ。その親
衛隊長を務めた女性マラハヤティはアチェ水軍司令官になって男女混合のアチェ水軍を率
い、オランダ軍船との戦争を行った。マラハヤティのエピソードは拙作「フェーオーセー
VOC」に見ることができる。度欲おぢさんのサイトでどうぞ。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/kawan-40_VOC.pdf


話を戻そう。
ウレバランの領内統治の方法は、スルタンにとって重要でない限り放任された。特に19
世紀末以降にスルタンの力が弱まり、果てはスルタン位が空白になってオランダ人レシデ
ンがそれに取って代わったあと、ウレバランの専横は甚だしいものになった。アチェの統
治行政権を握った植民地政庁は原住民への末端行政に旧来からの制度をそのまま利用した
ため、ウレバランはオランダ人のバックアップすら得ることになったのである。

そう書くと、すべてのウレバランがオランダべったりになって民衆に苛政を強いたと思う
観念論者が出るかもしれないので補足しておこう。スルタン空位後の反オランダゲリラ闘
争を指導したのもウレバランたちだったということを。分類ラベルの定義に従って人間に
関する判断を行うことは、人間のひとりひとりが異なる存在であるという自然の原理に反
していることを忘れてはなるまい。[ 続く ]