「アチェの分離主義(6)」(2021年04月30日)

たとえ規模の大小に違いがあっても、非道な専制統治が民衆の暮らしを苦難と悲惨で塗り
つぶしているなら、それを許してはおけない立場のひとびとが昔からいた。宗教が社会正
義を叫んで圧制支配者を非難し、それどころか民衆による為政者への反抗闘争すら指導し
たこともあったはずだ。宗教が宗教王国を作ろうとしたものまで含めて、そんな時代が世
界中の各地にあったのではなかったろうか?宗教が社会性を抜き取られてしまった文化の
中に住んでいる人間は、もう一度人類史を読み返す必要があるように思われる。

アチェでは、ウレバランがイスラムの理想とする民衆の暮らしを実現させていないとき、
民の声をスルタンに届かせる役割をウラマが果たしていた。スルタンがそのウレバランを
叱責することで、末端庶民の状況は多少とも改善されたにちがいあるまい。

ところがスルタンがいなくなってオランダ人に替わってしまったとき、ウラマのその面に
おける機能が停止した。ウラマ層を反オランダ闘争の扇動者と見なしているオランダ人に
ウレバランの行政批判をしたところで何も変化は起こらないだろう。オランダ人レシデン
にとっては、行政機構が機能することのほうがはるかに重大事なのであり、レシデンがウ
レバランの肩を持つ傾向はだれもが容易に想像できることだった。

日本軍政も住民統治行政でオランダ人と同じことをした。行政システムの中間から末端に
かけての行政管理者の地位にウレバランを就けたのである。アチェ人の日本軍政に対する
不満はそのときに芽吹いた。軍政が苛斂誅求の度を強めるようになると、対日反乱が防ぎ
ようもなく起こった。

独立共和国政府が指名したアチェレシデン区の初代レシデンは、ナショナリズムの高さで
定評のあったウレバラン、トゥク・ニャッ・アリフだった。中央政府のその措置にウラマ
層が一斉に反発した。1946年初からウラマの言葉に従う民衆とウレバラン層の間で殺
し合いが始まり、ピディ県ではほとんどのウレバランが殺された。それからあまり間を置
かずに東スマトラの海岸部で、オランダ植民地政庁のためにその人形となって働いていた
スルタンに始まり、その配下としてそれまで中間から末端に至る封建機構内で民衆を支配
していたひとびとに対する粛清が燎原の火のように広がって行った。インドネシア共和国
独立が革命の要素を含んでいたことは間違いない。


そんな背景の中での共和国独立宣言は、一方ですさまじいユーフォリアをアチェの地に湧
き立たせた。アチェ人が独立インドネシアにどれほど深い期待を抱いたかは、共和国新政
府が財政難のために国有航空機を買えないことを知ったアチェの民衆がこぞって金銀装飾
品を新政府に寄贈し、おかげでスカルノ政府はスラワSeulawahと命名されたDC−3を購
入することができた一事が証明している。

最初は新政府を全面的にサポートする姿勢を見せていたアチェ民衆が新政府に裏切られた
感情を抱いたのは、州制定に際して州域確定がアチェ人の希望を満たさないものになった
時だった。アチェが独自の州になることを望んでいたアチェ人は、アチェ・タパヌリ・東
スマトラが一体となって北スマトラ州を形成するという政府決定に苦い思いを抱いた。ア
チェ人がインドネシア共和国から分離しようという意志を持つ遠因をそれはもたらしたこ
とになる。

この話にはもう少し細かい流れがあって、1949年にアチェは一個の州になり、ダウッ
・ブルエが初代州知事に就任した。ところが共和国は1950年にアチェを含む元の北ス
マトラ州を復活させたことからアチェの中で騒乱が始まり、治安の平静化に苦慮した共和
国政府は1956年にアチェを独自の州にし、しかも1959年には宗教面に関する大き
い自治権を与えてアチェを特別州にした。[ 続く ]