「イギリス人ウォレス(16)」(2021年04月30日)

1858年1月4日、ウォレスはアンボンからテルナーテに移動した。テルナーテの土を
踏んだのは1月8日の朝。ここでウォレスが頼ったのは土着したオランダ人のダウフェン
ボーデン氏だった。紹介状を持って同氏を訪れたウォレスは、同氏に家を一軒世話しても
らった。

キングオブテルナーテの異名をとるダウフェンボーデン氏は大金持ちだ。テルナーテの街
の半分はかれの地所であり、多数の船を持ち、百人超の奴隷を有している。当然、テルナ
ーテのラジャと親しく、ラジャとラジャの家臣への影響力も小さくない。ラジャを動かし
たければキングにアプローチすればいい、という意味でかれがその異名をとっているのか
もしれない。

ダウフェンボーデン氏はイギリスで教育を受けたために、完璧な英語を話し、文学や科学
に造詣が深く、この地域一帯では稀有な知性だと言えよう。

世話してもらった家はオーナーが中華系土着民で、ウォレスはその家を三年間の借家契約
にした。その間ウォレイシアのあちこちに出向いては戻って来るベースキャンプの役割を
その家に持たせたのである。テルナーテは西洋人の生活をかなりのレベルで満たしてくれ
る町だ。近辺各地の未開の土地で3〜4カ月暮らしたあとにこの家に戻って来ると、ミル
クや焼き立てのパン、魚・卵・肉・野菜をいつでも食べられて、休養と栄養補給に努める
ことができる。


その家はポルトガル人が海岸に建てた要塞のすぐ傍にあり、街に近く、通りを5分も歩け
ばパサルと海岸に着く。山に向かう逆方向の道に西洋人の家は一軒もない。ここから北東
に向かって1マイルほどが原住民の居住地区になっていて、山や街の外へ出かける場合も
気を遣わないで行える。家の中は十分な広さがあって、荷造りや開梱、標本の仕分けや整
理が楽に行える。

この平屋建ての家は広さが40フィートの方形で、表と裏にベランダがあり、中央ホール
の左右に部屋が四つある。家屋の周囲は果樹で囲まれ、常に冷たい水が汲める深井戸が裏
にある。家の屋根は高さ3フィートの石の壁の上に立てられた頑丈な角材の柱で支えられ
ている。ベランダを除いて、柱の間はサゴヤシの葉脈が整然と並べられた枠が張られてい
て、天井も壁と同じようになっている。床はスタッコ造りだ。

その家は現在、テルナーテ市中央テルナーテ郡サンティオン町ジュマプアサ通りに位置す
る家屋だとされていて、家の横をアルフレッド・ラッセル・ウォレス小路が走っている。
2008年にインドネシア科学院LIPIに所属するウォレス財団がその家に記念碑を建てる
ことを計画した。そのときの住人はパウ~ガ・チャンドラ氏で、その家は1984年に前
の住人から買ったとのことだった。ウォレス財団が訪れるまで、チャンドラ氏はウォレス
のことをまったく知らなかった。

財団がこの家をウォレスの住居と判定したのは、かれの著書に述べられている位置と周辺
環境、そして家の裏手に井戸があることなどが一致したためだ。だが郷土歴史家のひとり
は、「調査から決定までが早すぎる。もっと念入りな調査が行われるべきだ。」と述べて、
その判断に全幅の信頼が置けないことを指摘している。

記念碑の定礎式がテルナーテ市長列席の下に行われたものの、2012年のコンパス紙記
事によれば、記念碑はいまだに建っていない。財団とチャンドラ氏の間での土地の移管問
題が決着していないためだそうだ。

現在ジュマプアサ通りという名称になっている表通りは2008年にそれまでのヌリ通り
からウォレス通りに変えられた。ところが2010年になって、ウォレス通りはジュマプ
アサ通りにまた名称変更されたのである。[ 続く ]