「アチェの分離主義(7)」(2021年05月03日)

ダウッ・ブルエは最初、スカルノを全面的に支持した。自分はスカルノの後に立つのだ、
と言って。ところがアチェを独自の州にしない中央政府の方針が明らかになり、その後つ
いに要請が認められたと思いきや、またまた情勢に翻弄されるありさまを目の当たりにし
て、ダウッは姿勢を変えた。1953年にかれはアチェのダルルイスラム運動を起こした
のである。それは西ジャワで起こったカルトスウィルヨKartosuwirjoのダルルイスラム/
インドネシアイスラム軍DI/TIIと提携したアチェ版反政府運動だった。

ジャカルタの中央政府はそれを分離主義と規定し、軍隊を送って鎮圧に努め、9年後にや
っとダウッ・ブルエへの説得を行って山間の闘争司令部からかれを社会復帰させることに
成功した。ダウッはピディのブルヌンでウラマの暮らしに戻った。


戦争で荒廃したアチェの国土の復興はなかなか進展しないままになっていたが、1970
年代に入って世界最大と言われたアルンArunのガス田が発見されたことで、中央政府は突
然アチェに対する関心を強めた。バンダアチェとメダンを結ぶ州間道路は大穴だらけで自
動車の進行も難儀する悪路だったものが、あっという間に快適な舗装道路に変身した。昔
は550キロ離れたその悪路を二日かけて踏破するのが普通だったのである、

夜は真っ暗だった村々に電灯がともり、中央政府の民生向上プロジェクトもさまざまに動
き出した。工業開発地区に指定されたアチェ北部の開発が進展し、農業がほとんどを占め
ていた州の産業構造は工業・商業・金融セクターに取って代わられた。そのための資本と
人間のほとんどは州外からやってきた。地元文化に沿った事業者選択などということが行
われるはずはなかったのである。

長期の戦乱で荒廃の極にあった北アチェ・東アチェ・シグリ各県の村々は、突然目の前で
展開されはじめた産業開発を、指をくわえて眺めるだけだった。そこで繰り広げられてい
るモダンなライフスタイルが自分たちの伝統的生活とあまりにもかけ離れたものであり、
しかも自分たちの伝統生活の枠組を形成している価値観から外れたものであるためにそこ
に関わることさえ地元民は躊躇した。これでは、外来者がやってきてアチェの富を奪い去
って行くのと変わらないではないか。この国土はアチェ文化を守って来たアチェ人のもの
ではなかったろうか?アチェ人の脳裏をサビル戦争物語がよぎった。


ダウッ・ブルエのダルルイスラム運動から二十年以上が経過して、インドネシア共和国か
らの分離独立を旗印に掲げた自由アチェ運動Gerakan Aceh Merdekaが1976年12月に
アチェで立ち上がった。発起人のハサン・ディ・ティロは米国留学中の1953年にダウ
ッ・ブルエのダルルイスラム運動に触発されてダルルイスラムの外務大臣を自任し、国外
での運動を開始した。その結果、かれはインドネシア国籍をはく奪されている。

米国から戻ってきたハサンが説くアチェ人の主権と誇りを基軸に据えたアチェムルデカ思
想は知識人・ウラマそして大衆から支持された。しかしオルバ政権が持った体質は、対話
の末に合意点を探すようなものでなく、反抗する者を力で抑えつけるスタイルだったので
ある。こうしてまた、アチェ戦争の愚が繰り返されることになった。

GAMはインドネシア共和国からの分離独立を要求して武装蜂起し、ジャカルタ中央政府
も軍事力でこの分離主義反乱を鎮圧しようとした。国軍はアチェ州全域に対する強力な軍
事行動を行って反乱軍を完全制圧し、80年代末に軍事作戦地区Daerah Operasi Militer
に指定して州全域を軍の管理下に置いた。GAMの生き残りは他州に散らばって地下活動
を継続した。[ 続く ]