「イギリス人ウォレス(17)」(2021年05月03日)

ウォレスが印した足跡は現在のテルナーテのどこを探しても見つからない。チャンドラ氏
の自宅をときどき西洋人学者が訪れることがある。ウォレスがウォレイシアでの調査活動
のための本拠地を置いたテルナーテに、ウォレスの足跡を求めてやってくるようだ。

チャンドラ氏の家がそうだと言われているだけであって、チャンドラ氏にそんな確信はな
い。しかもチャンドラ氏は自分の家族の暮らしの便宜のためにその家に手を加えている。
裏の井戸は既に閉ざされて、もう使われていない。150年超も昔の家屋と設備をいまだ
に使っている人間など、いるはずもあるまい。やってきた訪問者たちはたいてい、不満そ
うな顔でチャンドラ氏の住居を辞去するばかりだったそうだ。

ところが2019年のコンパス紙に、ウォレスの家論争に対抗馬がいることが報道された。
ジュマプアサ通りの第一候補者は現在空き家になっていて、オーナーのチャンドラ氏はマ
ルクに住んでいる。第二候補者はテルナーテ王宮に近いソアシオ地区にある家で、王族の
ひとりが住んでいて、ウォレスが描写した家によく似ており、裏に井戸がある。しかし、
その二者は1キロほど離れているのだ。ソアシオ地区のその家も近くに要塞があるが、そ
れは放置されたポルトガル要塞でなく、オランダのオラニェ要塞なのである。オラニェ要
塞は1607年に古いポルトガル要塞を壊して建てられたものだ。


ともあれ、活動のための基地を手に入れたウォレスはテルナーテのレシデンと警察に挨拶
に訪れてテルナーテ住民のひとりになり、このベースキャンプを中心にしたマルクの他の
島々やニューギニアへの探検旅行の長期計画を組む愉しみを満喫した。

テルナーテ住民についてウォレスは、テルナーテムラユ人、オランスラニ、オランダ人の
三種類だと書いている。オランスラニorang seraniは現代インドネシア語でキリスト教徒
を指す言葉で、ナザレのひとびとを意味するNasraniに由来している。ウォレスは自著の
中でorang Siraniと書き、ポルトガル人キリスト教徒の子孫を意味するムラユ語と説明し
ている。

テルナーテにやってきたもっとも古い種族はマカッサルと組んだムラユ人だったようだ。
かれらはジャイロロに王国を築いて在来土着民を駆逐した。現代インドネシアでの地名は
Jailoloが標準になっているものの、ウォレスはGiloloと綴っていて、多分当時の地元で
の発音がジロロだったように思われる。ウォレスがジロロと述べている島の名称はハルマ
ヘラ島のことであり、今ジャイロロという言葉が示すものは島内の郡の名称、および人と
文化そして王国名に関して使われている。

テルナーテとジャイロロではムラユ語ベースのたいへんよく似た言葉が話されており、外
来ムラユ人たちは原住民の女を妻にして子孫を残し、ムラユ語を使う混血の種族を作った
にちがいない。その後、ポルトガル人がやってきて既に混血している地元の女性を妻にし、
キリスト教徒の家庭を作ったのがオランスラニの先祖だ。更に華人やアラブ人もやってき
て土着化し、血と文化が入り混じった。

それ以外にも、パプア人や域内他島の者が奴隷としてテルナーテに定住している。このテ
ルナーテで、奴隷とご主人様という関係からは想像もつかない、常識からまるで外れたあ
りさまをウォレスは実見した。

ウォレスはテルナーテに居を構えるとさっそく、ジャイロロを訪れることにした。すると
ダウフェンボーデン氏の息子ふたりと借家オーナーの弟の三人が同行してくれることにな
った。かれらが船とクルーを用意してくれたのだが、午前3時出発のオーダーをしたのに
クルーは誰ひとりやって来ず、4人は暗闇の中で待ちぼうけを食わされた。クルーはかれ
らが所有している奴隷だ。[ 続く ]