「アチェの分離主義(8)」(2021年05月04日)

力による制圧を指示したスハルト政権が滅びると、レフォルマシ政権は1998年にDO
M体制を解除して、ハビビ大統領とウィラント国軍総司令官がアチェ州民に対し、DOM
体制下に国軍が行った種々の非人道的行為を謝罪した。国軍によるアチェ人への人権蹂躙
問題がマスメディアを賑わし、アチェのあちこちで行われた虐殺事件が明るみに出された。

時代の変化の風を受けて、GAMはまたアチェに戻って新政権との対話を再開したものの、
話し合いは毎回行き詰まり、アチェの内部でインドネシア共和国からの分離独立を叫ぶ一
派が住民投票の声を上げたとたん、中央政府は態度を硬化させた。

数千人の兵隊がやってきてアチェ州内のいたるところにポストを構え、州民の行動を監視
し、表だって暴力を振るうことはあまり起こらなかったようだが、政治運動を行う者や学
生活動家をかたっぱしから逮捕した。GAMは再び銃を手にするようになる。

DOM時代がぶり返したアチェでは、GAM闘争家の潜伏場所になっている、住民人口の
少ない村落部で暮らす非戦闘的住民がDOM時代の大量虐殺の繰り返しをおそれて都市部
に移り住んだ。およそ10万人の人口移動が起こったそうだ。DOM時代の人権裁判の動
きはこの変化によって蒸発してしまい、分離主義という重大国事犯罪の色で塗りつぶされ
ることになった。

DOM時代に国軍と国家警察がアチェ州内で行ったアチェ民衆に対する人権蹂躙行為に対
する復讐行動を、今度はGAMがレフォルマシ時代の国軍と国家警察に対して行った。ア
チェの全域に散開してアチェ人の民生を統御しようとしている国家の軍隊と警察に、GA
Mは積極的な攻勢に出た。それがアチェの民衆を守るための行動であるという見方によっ
て、民衆はGAMの行動を基本線で支持した。

元々GAMはアチェ州北部の北アチェ・東アチェおよびピディに基盤を置いていたため、
州内他県の住民にとってはそれほど親しみを感じるものでなかった。ところがこの時期の
GAMの攻勢は州内全域にGAMを出現させる結果をもたらした。つまり、GAM生え抜
きでない他県の者の中に、GAMの旗を担いで戦闘行動を始める者が出たということだ。
アチェ人にとってのサビル戦争が復活したのである。

この紛争は最終的にフィンランド政府が仲介に入って2005年8月15日にインドネシ
ア政府とGAMの間で和平協定が締結され、長かった武力闘争がやっと終結した


アチェ戦争でスヌーク・フルフロニェが植民地政庁に提言した「抑圧型の圧迫や長引く戦
争はアチェ人の反抗姿勢を硬直化させるだけであり、アチェの支配を難しくするばかりだ。
アチェ人に丁重で礼節のある姿勢を示し、アチェ人の心をつかむことがアチェの征服によ
い結果をもたらすことになる。」という言葉を東インド総督と植民地軍上層部は無視して
泥沼のゲリラ戦争を招いてしまったが、ジャカルタの共和国政府もその同じ轍を踏んで愚
行を繰り返した印象が強い。

アチェ戦争が既に証明したように、力で抑圧しようとすればするほど、アチェ人は頑なに
なってそれを拒み、反撃したのである。アチェ人を扱うとき、外面的な形式に意を注ぐと
たいして良い結果は得られない。アチェ人の心をつかみ心服させることが一番求められて
いることがらなのだ。アチェ戦争もGAM闘争も、まるで双子の兄弟のようではないか、
とアチェ人歴史家は述べている。


ヌサンタラの各地がオランダの支配下に落ちたにもかかわらず、19世紀末のアチェ戦争
まで、アチェはオランダの支配に屈しない独立国としての立場を維持して来た。アチェ戦
争でアチェの正規軍が壊滅し、アチェのスルタンが捕まって降伏文書に署名したことによ
って植民地政庁はアチェ征服が完結したと思ったが、そうはならなかった。個々に領地を
持つ武将たちの抗戦はスルタンが滅んでも続けられたのである。最期のゲリラ闘争指導者
が女性英雄チュッ・ニャッ・ディンであり、かの女は先にゲリラ戦で没したトゥク・ウマ
ルの妻だった。つまり、かれらは武将ウレバランだったのである。[ 続く ]