「イギリス人ウォレス(18)」(2021年05月04日)

5時になってやっと出現した奴隷たちをご主人様が叱ったが、その叱り方はいかにも甘っ
たるく熱のないもので、奴隷たちからは笑いと冗談だけが戻って来た。いざ船に乗り込も
うとすると、リーダー格の男が「自分は行かない」と言い出した。ご主人様はその奴隷を
何とか従わせようと説得し、懇願するありさま。そして最後に「行けば客人がきっと何か
くれる」とウォレスを釣り針にくくりつけたのである。

向こうに着けば、飲み食いは思うがままで、しかも大してすることはない、という説明と
その釣り針が効果を発揮して船はやっと出発し、3時間の櫂漕ぎと帆走でセディンゴレ
Sedingoleに到着した。しかしそこは鳥や虫の貧しい地区だったため、ウォレスはドディ
ンガDodingaへ移ることを希望した。

セディンゴレで二日間、一行は鹿や鳥を狩ったが、たいした成果はなかった。いよいよド
ディンガへ出発しようとしたとき、また奴隷の反乱が起こった。「ドディンガ?俺たちゃ
そんなとこへ行かないよ。テルナーテに戻るんだ。」ご主人様たちはそれに従うほかなく、
ウォレスとふたりの助手そして荷物はセディンゴレに残され、テルナーテのひとびとは自
分の町へ帰って行った。

幸運にも、ウォレス一行はそこで小舟を雇うことができ、その夜のうちにドディンガに到
着した。ドディンガはテルナーテのちょうど対岸に位置している。ウォレスはすぐに村長
を訪ねて空き家を求めたが、一軒もない。仕方なく、荷物を下ろしてあった浜辺で茶を飲
むしかなかった。

うまい具合に、ひと月5フルデンの家賃を払えば家を空けてくれると言う住民がいて、屋
根の雨漏り対策をきちんと行うことを条件に、ウォレスはその家に入った。家主は毎日ウ
ォレスを見に来て、話をした。ウォレスが条件の屋根改善をその都度要求しても、返事は
毎回「ヤー、ナンティ」だけであり、しびれを切らしたウォレスが家賃に条件を付けた。
それがなされるまで、一日当たり四分の一フルデンを家賃から引き、自分の物が濡れたら
1フルデンを引く。家主はさっそくその仕事を半時間ほど行い、必要最小限のことだけを
して帰った。

ドディンガに近い場所にポルトガルの要塞が壊れかかった姿で建っており、そこにはオラ
ンダの一部隊が駐屯している。ひとりのオランダ人伍長に率いられた4人のジャワ人兵士
がその兵力で、それがこの島でオランダ政庁を代表している唯一の存在だ。

村人はテルナーテ人ばかりであり、原住民がアルフロスAlfurosと呼んでいる土着民の姿
を見ることがない。アルフロスは島の東岸部や北側半島の内陸部に住んでいるので、ウォ
レスはアルフロスを見に行きたがったが、このときは果たされていない。


1858年2月、ウォレスはドディンガでの活動の合間に、その借家で「原種から無限に
離れようとする変種の傾向について」と題する20ページにわたる論文を、発熱の状態下
に書いた、とコンパス紙の記事のひとつは述べているが、別の記事では、マラリアのせい
と考えられている発熱状態下にウォレスはドディンガの家で適者生存原理の構想をまとめ、
テルナーテに戻ってからその手書き論文を書き上げた、と記されている。その論文の作成
場所名としてテルナーテと書かれていたために、ウォレスの論文は後にテルナーテペーパ
ーという名称で人口に膾炙した。

ウォレスの論文は、東インドにおける実地調査を基にしてかれが考えた、生物の種が変化
するプロセスとその傾向に関する概要を仮説にまとめたものだ。その仮説の根本をなす理
論は、強い種が生き残り弱い種が滅びるという大自然の摂理だった。その原理はいま自然
淘汰・適者生存という名称で呼ばれている。[ 続く ]