「マラッカ海峡(2)」(2021年05月07日)

バンカ島で発見された西暦紀元686年の年号のコタカプルKota Kapur碑文には、スリウ
ィジャヤ王国がバンカ・ブリトゥンからランプンに至るスマトラ島南部を支配下に置いた
ことが記されており、既にマラユやケダッに君臨していたスリウィジャヤはマラッカ海峡
全域を掌中に握ったことが分かる。マラッカ海峡全域を最初に支配したのはスマトラ人だ
ったのだ。

スリウィジャヤは更に、スリウィジャヤの王権に服属しようとしない西ジャワのタルマナ
ガラTarumanagara王国や中部ジャワのカリンガKalingga王国への討伐戦を行い、ジャワに
あった諸王国はスリウィジャヤに屈服した。こうしてスリウィジャヤはその最盛期に、マ
ラッカ海峡〜南シナ海〜スンダ海峡〜ジャワ海〜カリマタ海峡一帯の海上通商航路を支配
下に置く強大な海洋王国になっていた。

マラユ族の王国であるスリウィジャヤでは土着言語であるムラユ語が話され、スリウィジ
ャヤの船が属国との間を往来し、寄港する各地の港でムラユ語が使われた。それ以来ムラ
ユ語は、ヌサンタラ各地の沿岸部におけるリンガフランカの筆頭の地位を占めた。


スリウィジャヤの支配海域を諸国諸民族の交易船が通行し、スリウィジャヤはますます?
栄する。ところが、たくさんのタミール商船がマラッカ海峡を通過して交易を行いにやっ
てくるのだが、タミール商人たちが作った組合では、組合員から貢納金を徴収してインド
のコロマンデル海岸地方を支配するチョーラ王に献納し、チョーラ王は組合所属商船に庇
護を与えることが行われていた。タミール商人が乗っている商船はスリウィジャヤに通行
税を納めたくない。

スリウィジャヤのかける税が高すぎたのか、それともタミール商人の尊大さからか、タミ
ール商人組合がチョーラ王にスリウィジャヤの暴虐を注進した。海上の関所を無料で通過
したいという虫のいい話にチョーラ王が肩入れし、チョーラ王の水軍がスリウィジャヤ王
国討伐に向かった。

1017年と1025年に二回行われたチョーラ軍の進攻によって、スリウィジャヤ王が
捕らえられてインドに連行され、それ以来、数十年に渡ってスリウィジャヤはチョーラ王
に服属する一王国に没落した。


スリウィジャヤ王国が傾き始めると、それまで服属していた諸国が続々と宗主国を見限っ
て独立し、群雄割拠状態になる。その中で、スリウィジャヤ王国を後継したのがダルマス
ラヤDarmasraya王国だった。

中国の史書によれば、チョーラ王国の支配下にある三佛斉が1082年に使節を派遣し、
使節は三佛斉の属国であるジャンビ王の親書を持参した。三佛斉という名称はもっと古い
時代にスリウィジャヤを指して用いられたこともあるが、1082年はスリウィジャヤが
既に没落してダルマスラヤに取って代わられていたはずであるため、三佛斉はスリウィジ
ャヤの没落後、スマトラを意図して使われていたのではないか、というのがインドネシア
歴史学会の見解だ。三佛斉の属国として15の国名が列挙されているのを見ると、ダルマ
スラヤは完全にスリウィジャヤの往年の威勢を復元したように思われる。であるなら、マ
ラッカ海峡の支配権は依然としてスマトラのマラユ族の手中にあったと言えるだろう。
[ 続く ]