「イギリス人ウォレス(21)」(2021年05月07日)

ドレとマンシナムの海岸部居住者たちは海の上に家を建てて住んでおり、家と陸地の間を
橋で往来する。ウォレスの住む家をオットー師が原住民に頼んでくれたものの、居住者が
いつ海中に落ちるかもしれないような家が用意された。仕方なくウォレスはドレ村側の陸
地に家を建てることにした。原住民が手伝いに来てくれて、ウォレスと助手たちと一緒に
働いたが、原住民の中にムラユ語を話せる者がひとりもおらず、工事は難渋した。

ウォレス一行が来たのは雨季の終わりごろで、十日間は毎日午後雨が降り、夜中も雨が降
り続いた。それから段々と雨が減った。しかし、そのうちにドレは鳥類や虫の貧しい土地
であることが分かり、ウォレスは大いに失望した。

周辺の土着民の村を訪れて、鳥や虫を持って来れば買うことを村長に話したが、たいして
効果はなかった。野生の鳥・イノシシ・カンガルー・クスクスなどがいるにはいるのだが、
普段から土着民はほとんど狩りをせず、したがって白人のために獲物を狩って報酬を得よ
うとする者も現れなかった。

ドレの住民が交易に訪れる百マイルほど西のアンブバキAmberbakiにウォレスは助手二人
を送って極楽鳥を買わせようとした。ところが、助手が持ち帰って来たものは全く売られ
ていないという報告だった。かれらはアンブバキの森に入って鳥を撃とうとしてみたが、
ウォレスの喜びそうな鳥は影も形もなかったそうだ。


ドレ滞在中、ひっきりなしに誰かが病気や怪我に倒れ、助手のひとり、ブトン出身の18
歳くらいの青年が死んだ。ウォレス自身もしばしば、家から出られない日々が散発的に発
生した。ここへ来ることを熱望した時と同じくらいの熱意で、このパプアから去りたいと
思った、とかれは書いている。

外へ出られるとき、鳥を得ることを諦めたウォレスは新種の昆虫探しに没頭した。ドレを
去る日が近付いてきたころに、かれはたくさんの甲虫を採集することができた。6月1日
には生涯最大の成果になった一日で95種の甲虫類を得て、帰宅後ピン刺し作業に6時間
を費やしている。

1858年7月22日にへスターヘレナ号がドレに戻って来た。船はドレに数日間滞在し、
29日にウォレス一行を乗せてテルナーテに向かった。たいていの土地では、そこを去る
に当たってウォレスは残念な思いを多少なりとも感じるのだが、ドレについてはそのよう
な感傷は少しもなかったそうだ。憧れのパプア行はどうやらかれに、失敗の評点を与えさ
せたように思われる。

へスターヘレナ号は17日間かけてテルナーテに到着した。普通はその時期、東あるいは
南よりの風が吹くのに、このときはどうしたことか西からの微風が続き、普通の時期の三
倍もの時間がかかってしまった。早くテルナーテに戻って新鮮なミルク入りのコーヒー紅
茶、焼き立てのバターパン、うまい鶏肉や魚料理を満喫したかったウォレスにとっては、
最後までケチの付いた旅だったと言えよう。


しばらく休養を取ったウォレスは1858年9月にふたたびジャイロロを訪れた。このと
きは、テルナーテのレシデンが北側半島部にウォレスのための家を用意するよう指示を出
してくれたので、家探しの必要がなかった。そのとき、ジャイロロ村では成果が得られず、
かれはサフ村を訪れた。その話は上に書いた。

サフ村からテルナーテに戻ったウォレスは次にバチャンBacan島を訪れることにした。こ
の旅は他のだれも通らないルートなので、舟を借りて自力で航行しなければならない。テ
ルナーテの現地人居住地区へ行って貸し舟を探したところ、小さいボートと大きい船が見
つかった。小さい方が廉いことは決まっている。島々を海岸線伝いに航行するのは小さい
方が楽であり、安全だ。

ウォレスは四人の助手を同行させることにしていたので、荷物を積み込むと人間が入る余
裕のほとんどなくなる小さいボートにもうひとりだけ、水先案内人を雇って加えた。雇っ
たのはパプア人奴隷で、粗野でなく、注意深いところがウォレスの気に入った。ボートは
ラウ・ケントンという華人からひと月5フルデンで借りた。[ 続く ]