「マラッカ海峡(3)」(2021年05月10日)

ダルマスラヤ王家の系譜もよく分からない。1183年の年号を持つグラヒGrahi碑文に
マウリMauli王家の名称が記されており、スリウィジャヤ時代のサイレンドラSailendra王
家から変化していることが、スリウィジャヤからダルマスラヤへの移行を推測させている。

グラヒ碑文はタイ南部地域で発見されたものであり、ダルマスラヤ王国がスリウィジャヤ
王国の権勢を復活させたことをそれが証明していると見ることができる。


ダルマスラヤ王国はアディティヤワルマンAdityawarman王の時にその幕を閉じた。アディ
ティヤワルマンの母はダルマスラヤの王女ダラ・ジンガDara Jinggaだったから、かれが
マウリ王家の血を引く人物であることは疑いがない。ただし父親が諸説あって、ジャワの
王家の人間であるのは確かだが、大王だったのか貴族だったのかに違いがある。

シ~ゴサリSinghasari王国最期の大王クルタヌゴロKertanegaraは、スマトラのマラユ系王
国に軍勢を送って示威外交を行った。相手はもちろんスリウィジャヤを後継したダルマス
ラヤ王国だ。パマラユPamalayuと呼ばれたスマトラ島進軍は、クルタヌゴロが対モンゴル
戦に備えて同盟軍を持つことを骨子に据え、ダルマスラヤが両手を広げてジャワの王国軍
を歓迎すればそれでよし、ジャワにひれ伏すのは御免だと言うのであれば一戦交えるだけ、
というものだったらしい。パマラユを単なるジャワのスマトラ征服戦と理解していた古い
歴史観を持つひとびとがいまだに多いため、国内歴史学会はその啓蒙に力を入れていると
いう話だ。

双方が実際に一戦交えたのは事実であり、ジャワ軍が勝利したためダルマスラヤはシ~ゴ
サリに服従した。パマラユ遠征軍総司令官のマヒソ・アナブランMahisa Anabrangはふた
りの王女(ダラ・ジンガとダラ・プタッDara Petak)をジャワに連れ帰った。


ここから説が分かれる。ふたりの王女はクルタヌゴロに献上されたものだったので、マヒ
ソ・アナブランは手をつけなかったというもの。しかしシ~ゴサリに戻ったとき、クルタ
ヌゴロ王はジョヨカッワンJayakatwanの反乱で既に没し、クルタヌゴロの女婿ラデン・ウ
ィジョヨRaden Wijayaが元軍に対する謀略戦を行っていた。結果的にクルタヌゴロの後継
者としてラデン・ウィジョヨがダルマスラヤの王女ふたりを妻にした。一説では、ラデン
・ウィジョヨはクルタヌゴロの娘四人を妻にしており、またまた姉妹まるごと妻になるパ
ターンが繰り返されたことになる。

別の説によれば、マヒソ・アナブランはダラ・ジンガを自分の妻にし、ダラ・プタッをク
ルタヌゴロのために連れ帰ったところ、結局ダラ・プタッだけがラデン・ウィジョヨの妻
になったという話。

ダラ・ジンガの生んだ子供がアディティヤワルマンだったので、父親がラデン・ウィジョ
ヨだったのか、それともマヒソ・アナブランだっかのかがはっきりしないところだが、い
ずれにしてもアディティヤワルマンはマジャパヒッの王宮で幼少期を送ったにちがいある
まい。たとえ大王の息子でなくとも、叔母が大王の妃であるなら、王宮の中で風を切って
いたかもしれない。


1339年、マジャパヒッ王宮はアディティヤワルマンをスマトラの領主としてジャワか
ら送り出した。かれはダルマスラヤ王国の王位に就き、マジャパヒッの外征に協力した。
1347年、アディティヤワルマンはマラヤプラMalayapuraという名の新王国を作った。
その後、かれはマラヤプラの王都をミナンカバウの地であるパガルユンに移転した。それ
は黄金の産地を直接の支配下に置くためだったと言われているが、マジャパヒッ王国の宰
相ガジャ・マダが率いるヌサンタラ制覇遠征軍に巻き込まれるのを嫌ったためであると語
る見解もある。

マラユ族を代表する王国としてマラヤプラを作り、それがパガルユンに移転したのであれ
ば、ミナンカバウ族と呼ばれている種族はマラユ族の一派であるということになるものと
思われる。

ダラ・ジンガはマジャパヒッでしばらく暮らしたあとで、またダルマスラヤに戻った。タ
ンボtamboと呼ばれるミナンカバウの生い立ちや文化を述べた民族説話に登場するブンド
・カンドゥアンBundo Kanduangはダラ・ジンガのことであると語るひともいる。[ 続く ]