「マラッカ海峡(4)」(2021年05月11日)

スリウィジャヤ〜ダルマスラヤと続いたマラッカ海峡の覇者がマジャパヒッの外征によっ
てスマトラ内陸部に移動し、全海峡の覇権を握る者がいなくなった。マジャパヒッを宗主
国に抱く沿岸地区の諸王権が海峡を分割する形式になってしまったのである。そんな中で、
今度はマラユ半島側にマラッカ海峡を制する覇者が現れた。それがムラカ王国であり、英
語ではマラッカMalaccaと書かれる。

13世紀末の1299年に、現在のシンガポール島であるトゥマシッTumasikに王国が誕
生した。ビンタンBintan島の領主だったスリウィジャヤ王国の末裔を名乗るサン・ニラ・
ウタマSang Nila Utamaが一族郎党およびオランラウッOrang Lautで編成された水軍を率
いて、シ~ガプラSingapura王国を築いた。

1330〜1340年の期間、シアム王国がシ~ガプラ征服をこころみたものの、成功し
なかった。サン・ニラ・ウタマの子孫が三代続いた後の1399年に王位に就いたパラメ
スワラParameswaraのとき、シ~ガプラ王国の重臣のひとりがマジャパヒッに通じて140
1年にジャワ軍の進攻を手引きしたため、パラメスワラはシ~ガプラを捨ててマラユ半島
に逃げ、北上して再起するのに良さそうな土地を見つけてそこに定住した。その地が現在
のムラカであり、ムラカとはムラユ語でコミカンソウ属の樹ユカンを意味している。ムラ
カ王国が誕生する前にマラッカ海峡という名称は多分、存在しなかったということだろう。

ムラカ王国建国時にパラメスワラ王はまだイスラム化していなかった。1409年にパサ
イの王女を妻にしてイスラム化し、かれはラジャ・イスカンダル・シャッRaja Iskandar 
Shahを名乗った。

トメ・ピレスの東方諸国記に書かれたパラメスワラの履歴は異なっている。かれは元々パ
レンバンの王であり、ジャワの軍勢に攻撃されたためにトゥマシッに逃れ、トゥマシッを
領有していたシアム王国の現地行政官を殺してその座を奪った。しかし異変を知ったシア
ム王国の軍勢がやってきたために、パラメスワラはマラユ半島部へ逃れたというストーリ
ーになっている。


新興ムラカ王国はいくつかの方針を定めて国家運営を開始した。まず北方に位置する強大
なシアム王国との友好であり、ムラカはシアムに貢納を行い、またシアムから食糧を買い
入れて友好的な関係を築くことを決めた。次いで、アジア最大の強国である中国への朝貢
を欠かさないこと。明の永楽帝の時代にパラメスワラは使節を送り、中国皇帝はムラカ王
国を認めて保護を与えることを約束している。1409年に鄭和の船隊がムラカを訪問し
たときの様子が帰朝報告書に記された。それによれば、パラメスワラはそのときまだ王位
に就いていたが王と国民がイスラム化していたとのことだ。

ムラカは域内諸国との関係樹立のひとつとして、近隣諸国の特産物である錫の取引をムラ
カで行うようにとの誘い掛けを行った。ムラカに商船が集まって来るのなら、錫産出国に
とっても有利な話だ。このビジネス戦略はムラカがマラッカ海峡最大の商港に発展するた
めの誘い水のひとつだったにちがいあるまい。

同時に、昔からマラッカ海峡に出没する海賊の撲滅にも力を注いだ。海上の安全確保は域
内最大の商港になるための必須条件だったのだから。またそれだけでなく、船舶航行のル
ール決めや海上での諸活動の定型化なども行い、海上国際法のようなものを確立させた。
船長や乗組員の役割や責任、船内での安全確保と秩序の維持などのための規則も作られて
いる。[ 続く ]