「マラッカ海峡(5)」(2021年05月12日)

通商による国家繁栄は国力を強化し、域内覇権をうかがうことを可能にする。域内覇権を
確立させることによって、通商による国家繁栄もさらにステップアップすることになるの
である。そこに相乗効果が発生する。

1459年、ムラカスルタン国はケダッとパハンPahangを攻めて服従させ、更にジョホー
ル並びにスマトラ島岸のジャンビ及びシアッSiakをも征服した。こうしてマラッカ海峡は
ムラカの前庭になったのである。それからおよそ半世紀の間、東南アジア域内最大の商港
として繁栄を謳歌していたムラカスルタン国が、世界制覇を狙うヨーロッパ人の標的にさ
れた。


アジアに一番乗りしたポルトガル人はインドのコチンを奪ってそこにアジア征服の根拠地
を置き、第二代インド総督アフォンス・ドゥ・アルブケルケAlfonso de Albuquerqueはイ
ンドのゴアに根拠地を移したあと、次のターゲットとして、東南アジア最大の商港でスパ
イス貿易の要衝になっているムラカに照準を当てた。その地を奪取して通商の要衝を確保
し、それと同時に、さらに東方に向かうための中継基地を設けるのが目的だ。

アルブケルケは大型軍船18隻から成る大軍団を率いてムラカに向かい、1511年7月
初めにムラカ港を海から取り囲んだ。一方的な要求を出し、ムラカスルタンが拒否すると
軍船の大型搭載砲が火を噴いた。1千2百名のポルトガル軍兵員が上陸を開始する。戦闘
はおよそ40日間継続し、8月10日にムラカスルタン国は壊滅した。

ムラカスルタンは利あらずとしてビンタン島に逃れ、そこにムラカの王都を移して対ポル
トガル徹底抗戦を継続した。1518年と1523年にはポルトガル領マラッカへの大攻
勢が行われている。ポルトガルが反撃に出て1526年にビンタン島を攻略すると、スル
タンはスマトラのカンパルKamparに王都を移したが、二年後に没した。このムラカ最期の
スルタンの王子のひとりはペラッPerakにスルタン国を樹立してそこの初代スルタンにな
り、別のひとりはジョホールの初代スルタンになった。


このようにして、ムラカスルタン国の王都はヨーロッパ人が支配する欧亜混合文化の大都
市に変貌した。町の中心の丘のふもとのモスクは取り壊されて、要塞の主塔に造りかえら
れた。丘の上にあった木造のスルタン宮殿は石造りの教会に建て直された。そのときにモ
スクに使われてあった石材に加えてスルタン家墓地の石材もすべてがそれらの建て替えの
ための建築材料にされたそうだ。

要塞城壁は南側河口と海岸線に沿って丘を包むように作られた。要塞都市の中は追々、議
事堂・政庁舎・司教館・大聖堂・修道院・牢獄・兵舎・病院などで埋められ、要塞周辺に
は原住民や他のアジア人の居留地区ができて、多数の教会や修道院が作られた。そのよう
な形で、ポルトガル文化を自己のアイデンティティにするポルトガル人とアジア人のメス
ティ−ソが生み出されて行った。マラッカ要塞内に住む純血ポルトガル人の人口は2百人
の兵員と3百人の非軍人を超えることがなかったが、その一方で要塞を取り囲む町には7
千4百人のカトリック教徒が居住するまでになっていった。


商港ムラカの歴史の中で、ムラカスルタン国の繁栄の度が高まるとともに、北西方面から
マラッカ海峡にやってくるムスリム商船は特別待遇を享受したようだ。インド・アラブそ
してスマトラ島北岸部のイスラム化したラムリ・パサイ・ピディなどの船がそれに該当す
る。ムラカ自身がマラッカ海峡北側出口を扼するスマトラ北岸部の諸王国と親密な関係を
築こうとしたのは、イスラムという共通項以上に、マラッカ海峡全域の完全掌握を意図し
たものだったのは明らかだろう。

ところが、マラッカ海峡の海上支配権をマラッカのマラユ族からポルトガルが奪取してそ
の後継者たらんとしたとき、周辺のマラユ諸王国から北側のイスラム諸王国までもが総反
発した。特にポルトガル人が組織的に憎悪の感情を込めてイスラム撲滅の動きをあからさ
まに示したことが、ムスリム商船にマラッカ海峡への進入を躊躇させる結果をもたらした。
それは通商の利の問題でなく、身の安全の問題なのだから。[ 続く ]