「イギリス人ウォレス(24)」(2021年05月12日)

12月半ばに、ウォレスは村の中に引っ越した。今度は村の西側の調査を行おうと考えた
ためだが、テルナーテに戻りたくなった時も行動に移しやすい。オランスラニの部落に手
ごろな大きさの家が見つかった。オランスラニの日常生活習慣を知るのにも好都合だ。

オランスラニはキリスト教徒であり、クリスマスと新年を絶え間ない銃撃・ドラム・バイ
オリンの音の中で祝う。音楽とダンスが大好きなかれらが習慣的に行っている社交の集い
を訪れたヨーロッパ人は驚くこと請け合いだ。

暗い家の中の床は土間で、薄暗い明かりが二つ三つ、闇をほのめかしているばかり。楽団
はバイオリンと笛、太鼓とトライアングル。そして白と黒のポルトガル風衣装を着た大勢
の若者男女が集まって、カドリル・ワルツ・ポルカ・マズルカなどをたいへん活発に、し
かも上手に踊る。供されるのは泥っぽいコーヒーと甘いスナック類。ダンスは何時間も続
けられ、すべてが秩序と礼儀正しさの中で進行する。この種のパーティはコミュニティの
主要メンバーの回り持ちで週一回程度開かれる。来たい人が自由にやってきて、あまり仰
々しくない雰囲気で参加している。

三百年もの間にかれらは言語を替え、ポルトガルに関する知識もほとんど消失してしまっ
たというのに、かれら自身の本質がいかに厳然と維持され続けているかということについ
ては、実に驚き以外のなにものでもない。かれらは見かけから立居振舞まで、ほとんど純
粋ポルトガル人そのものだと言える。かれらは家財道具の貧しい家に住んでいても、ヨー
ロッパ風のドレスや日曜日のための黒づくめのスーツを必ず持っている。かれらは額面上
でプロテスタントになっているのだが、日曜日の夕方は音楽とダンスの華麗なる一時にな
るのである。

男たちは良い腕前のハンターであり、週にニ三回、鹿やイノシシの獲物を部落に持ち帰り、
魚やニワトリの食事に豊かさを加えている。ここの島々でフルーツコウモリを食べるのは
ほぼ、このオランスラニだけで、その醜怪な生き物をかれらはたいへんなごちそうだと思
っている。

そのフルーツコウモリは年の初めに大群をなして果実を食べに飛来し、日中は小島の枯れ
木に数千匹が集まってぶら下がる。そこを棒で叩き落すと、たいへん容易に籠一杯のこう
もりを収穫できる。料理の際にはたいへん注意深い処理が必要とされる。皮は強烈なキツ
ネ臭を発散するので、皮をはぐとき、慎重な作業をしなければならない。料理には大量の
スパイスや薬味を使い、できあがった肉は野ウサギのような味わいがある。オランスラニ
はムラユ人より料理が巧みであり、味付けのよいご馳走のバラエティには圧倒的な差があ
る。バチャンのオランスラニはサゴをパン代わりの主食にし、たまにコメを食べ、野菜と
果実はたいへん豊富だ。

ポルトガル人がアジアの土着民女性との間に作った子供たちが、その両親のどちらの系統
よりも色黒になっているのはまったくの不思議である、とウォレスは書いている。マラッ
カのポルトガルプラナカンもそうだったし、マルクのどこへ行っても同じようになってい
る。南米でウォレスが見たポルトガル人子孫とそれは正反対の現象なのである。ブラジル
では、ポルトガル人とインディオの子孫は肌の色がインディオのそれよりも明るい。バチ
ャンの女性は外見的に男よりも柔和であるにせよ、粗野でいかつい印象が強く、オランダ
とムラユの混血女性の美しさにはとても及ばない。純血ムラユ女性と比較しても、たいて
いの場合負けている。


バチャン村周辺を調べ尽くしたウォレスは、1859年3月21日にカシルタKasiruta島
へ向けて出発した。カシルタはバチャン島の北西にほぼ横並びになっている島だ。そこに
はバチャンスルタンの持ち家もあり、ウォレスはその家を使う許可を得ていた。

すべての荷物を積み込んだウォレスのボートは翌早朝にカシルタの小さい川に入り、一時
間ほどでスルタンの持ち家に着いた。その日はほぼ終日雨が降り、午後遅くやっと上がっ
たので、ウォレスは周辺の散策に出てみたものの、唯一の踏み分け道は泥沼になっていて
前進不可能。まわりの処女林はあまりにも深く、暗く、湿っていて、鳥も虫も期待できそ
うにない。ここの住民はサゴ・果実・魚・狩猟で生きており、処女林を開墾して何かを栽
培するようなことをしない。[ 続く ]