「マラッカ海峡(終)」(2021年05月18日)

ポルトガルの東南アジア権益崩壊のとどめを刺したのが、VOCとジョホールスルタン国
が組んで行ったマラッカ攻略戦争であり、1641年のポルトガル領マラッカの陥落はス
ペイン・ポルトガルの同君連合が終了した1640年の直後であった。ポルトガルが自主
外交を展開するようになれば、オランダ人にとってアジアのポルトガル権益を総なめでき
る状況が遠のいていくことになるだろう。

オランダ人にとって、マラッカ奪取はアジア域内における通商支配のための一戦略であっ
て、マラッカ海峡の支配という局地的な野望ではなかった。VOCは1606年にジョホ
ールのスルタンと条約を結び、マラユの地への領土的野心を持たず、マラユ諸王国との交
易に専心して紛争を避けることを約束し、東南アジアにおけるポルトガル攻略の基礎固め
を早くから進めてあった。

結果的にオランダ人はマラッカをオランダ文化の街に変えただけで、そこを通商のための
市場や基地に使おうとはしなかった。マラッカ海峡はポルトガル人の手に落ちた時から、
通商センターとしての機能が失われていたということになる。こうして今日に至るまで、
マラッカ海峡は交通と軍事の要衝としての立場を維持し続けている。


オランダの後、マラッカ海峡はイギリス人の手に落ちた。1786年にケダッスルタン国
の領土だったペナン島Pulau Pinangがイギリス東インド会社に割譲されて、マラッカ海峡
北口にイギリスの強力な基地が設けられ、1819年にはジャワ統治の夢破れたラフルズ
がシンガポールをジョホールスルタン国から割譲させてマラッカ海峡南口を確保し、オラ
ンダが領有していたマラッカも1824年の英蘭協約によってスマトラ島のイギリス領ブ
ンクルBengkulu(英語ではベンクーレンBencoolen)と交換されて、マラユ半島側にマラ
ッカ海峡を掌握するためのイギリスの体制が構築され、その三カ所およびペラッスルタン
国のディンディンDindingを併せたものが1826年に海峡植民地Straits Settlementsと
いう行政単位に一括された。

海峡植民地という命名法は明らかに、当初のジオポリティクスがマラッカ海峡に焦点を当
てていたことを示しているではないか。ところがパックスマラヤが定着するにつれて、東
南アジア島嶼部の要としてのシンガポールの地位が浮上し、ペナンはインド洋東端の軍事
要衝、マラッカはたいした重要性を持たない寒村になり果ててしまった。

ともあれ、1826年の時点でマラユ半島部にあるマラユ族の諸スルタン国を植民地化す
る土台はできあがったのも同然だ。1896年に半島中央部のペラッ・スランゴル・ネグ
リスンビラン・パハンがマレー王国連合となってイギリスの保護下に落ち、追々、他のス
ルタン国も同じ立場に置かれて、シアムの領土になっている半島付け根部を除く全域がイ
ギリス領マラヤとなっていった。

こうして、マラッカ海峡は東側のマラユ半島部に足場を築いたイギリスが支配する交通と
軍事の要衝として統括される状況になる。アチェを除いてすべてがオランダ領になってい
たスマトラ島側では、アチェもオランダも海峡の統括管理はイギリスに下駄を預けてしま
ったようだ。アチェはオランダとの力関係を維持するためにイギリスを後ろ盾につける必
要があり、イギリスと事を構える愚を犯すことは避けて当然だった。オランダにしても、
海を支配して沿岸国の安全保障を行う必要性など、ほとんど感じなかったということだろ
う。そのような状態で、マラッカ海峡は現代史の戸口に立ったのである。


そんな歴史の流れを理解するなら、英語マレーMalayの語源であるマラユはスマトラに由
来しており、スマトラのマラユ族が半島部に諸王国を作って現代史にまで継続したもので
あることから、マレーシアとインドネシアという現代国家がどのような関係にあるのかと
いうことは自ずから明らかだろう。マレーとは半島部の呼称であり、スマトラあるいはイ
ンドネシアと関係のない概念であるという外国人の感覚は歴史的な経緯を見落とした概念
であるように思われる。

マラッカ海峡とはマラユ族の領域を東西に分断した水域であり、またスマトラのマラユ族
を半島部に運ぶ水路としてその両者を結び付けた通路でもあった。スマトラのマラユ系種
族には、半島部の諸スルタン国に親戚がいるひとびとが少なくない。もちろん、半島部の
諸スルタン国は現代マレーシアの諸州になっている。かれらはいまだに、マラッカ海峡を
越えて相互に往き来しているのである。[ 完 ]