「マレーはムラユに非ず(1)」(2021年05月19日)

英語Malayの語源は、ポルトガル人が呼んだMalaioをオランダ人がMalayoと表記し、イギ
リス人がそれを受けてマレーMalayとした、という説明がネット内の英語記事に見られる
が、それらすべての根源はムラユ語のマラユMalayuあるいはムラユMelayuであることに変
わりはない。

更に、melayuあるいはmalayuの語源はlajuに接頭辞me-を冠したもので、その意味は「速
進する」であって、河の奔流や急流を示しているという説明に至る。しかしラジュがどう
してラユになったのかについての説明はどこにもない。

一方、ムラユのラユlayuとはラジュから変化したものでなくて、元来「低い」を意味する
ラユがそのまま使われており、自己を低めて相手を高めるという、社会生活における謙譲
の精神が豊かな、文明化した種族であることから来たという説もある。


しかし他にも種々の語源説があって、われわれはこの複数の真実を受け入れざるを得ない
ようだ。元々、言葉というのはある場所である数人の人が作ったとしても、その言語コミ
ュニティが受容するかどうかというプロセスを経なければ確立されないものであるため、
複数の場所で複数のグループが異なる理由で作った言葉がたまたま同じものであったら、
その語源は複数になる可能性が高い。人間の集団が行うことに単一の理由付けをしようと
するひとびとは、現代教育の弊害である「正解はひとつだけ」という観念主義に精神の視
野を狭められた犠牲者かもしれない。

人類文明の発展というものが、どうも歴史の中のある段階で方向性を狂わせ、人類社会全
体の善を追及すればするほど、個々の人間を矮小化する傾向を強めているようにわたしに
は思われる。余談はさておき:

◎ヒマラヤ説: HimalayaのHimaは雪を指し、alayaは場所を意味していて、雪のある場
所・涼しい場所を意味する言葉からHiだけが脱落した。

◎山の町説: 山を意味するMalaiyurに町puraが組み合わさったMalaiyur-puraが、その
うちに言葉の一部だけが発音されるようになってマラユになった。

◎国の起こり説: Malaはmulaの訛化音であり、yuはnegeriを意味する言葉であるので、
始まりの国という意味でMalayuと呼ばれた。
ジャンビ州バタンハリBatang Hari河の河口に興った古代の国がマラユであり、西暦紀元
671年に義浄がインドのナーランダに赴く途中でスリウィジャヤの王都に半年間滞在し、
そこからマラユに移って2カ月滞在したとき、マラユはスリウィジャヤの支配を受けない
独立国であった。ところが義浄が廣東に戻る帰途にマラユを再訪した685年ごろ、マラ
ユはスリウィジャヤの支配下に落ちていたという話にからめると、次のようなストーリー
が想像できそうだ。

最初、マラユ族がバタンハリ河の河口に王国を作ったあと、王家の一部が分かれてパレン
バンPalembangのブキッシグンタンBukit Siguntangに王宮を構え、スリウィジャヤ王国を
称した。そうなると、本家の王国が「こっちが始まりなのだ」と主張する必然性が生じる
のは納得できる。

代を重ねるうちに分家のスリウィジャヤ王国が隆盛を極め、マラッカ海峡の支配に乗り出
す。本家であるマラユ王国を分家が呑み込むことを遠慮したためか、マラユ王国はある時
期まで独立を維持していたものの、海峡の完ぺきな支配のためにはそんな礼節に構ってい
られないとスリウィジャヤが自覚したのか、それとも別の何らかの事情が発生したのか、
スリウィジャヤはマラユを屈服させて支配下に置いた。


マラユ族は昔から王都を河畔に設けることを慣習にしていた。その一番古いと考えられる
マラユ王国が王都を置いたバタンハリ河は流れが速かったためにムラジュと呼んでいたの
がムラユという国名になった、とムラユ出身の歴史学者は書いている。

語源がどれであれ、マラユの名称はスマトラ島バタンハリ河が本源であるのは間違いない
ようだ。マラユ族はスマトラ島南部・マラヤ半島・リアウ=リンガ諸島・西カリマンタン
・ボルネオ島北部一帯にまで広がって、それらをマラユの地にした。ところが世界でも有
数の大規模な民族と思われるマラユ族の領域が、当人たちの意識は別にして、現代世界で
ひとつの単位とされていないのである。これではまるで、クルド族のようではないだろう
か。[ 続く ]