「イギリス人ウォレス(27)」(2021年05月19日)

海抜5百フィートから4千フィートまでの高地でコーヒー栽培が驚異的な成功を示し、酋
長たちにコーヒー栽培の勧誘が強く行われ、ジャワからプリブミ指導員と種が送られ、農
園作業者には周辺部落で栽培される食糧が用意され、生産されたコーヒーを政府買取所に
引き渡すと政府の定めた価格で買い取られ、マヨールMayorの地位を与えられた酋長には
その5%が支給された。

その後、マナド港と高地を結ぶ道路が作られ、村々の間も小さい道路網でつながれた。宗
教伝道団が町にやってきて布教を行い、また学校が作られた。土着民がコーヒー栽培で得
た金を目当てにして、華人商人が衣服やさまざまな品物を販売しにやってきた。その一方
で地域は行政地区に分割され、ジャワで優秀な業績をあげたヨーロッパ人もしくはヨーロ
ッパ系プリブミ監視官が送り込まれた。監視官は担当行政区の総合的監督を行い、今やマ
ヨールとなった酋長の相談役になり、民衆の保護者になり、酋長とその配下の民衆が植民
地政庁との間に行うあらゆる関係の仲介者にもなった。

監視官はその職務のために毎月一度所轄地域内のすべての村を訪れ、月報を直属上司であ
るレシデンに提出した。村と村の間で戦争の種になっていたあらゆる諍いは、より文明的
なシステムを行う監視官によって調停され、土着民はその決定に服従する傾向を持ち、実
力抗争が消滅していった。そうなると、敵の攻撃への防御として作られてきた砦のような
住居は不便さばかりが目立つようになり、監視官が持って来た家屋構造の住居に一律に建
替えられた。ウォレスがやってきたのは、そんな野蛮時代からまだ四十年も経過していな
い時期だったのである。


6月22日午前8時、ウォレスはロッタLotta村の訪問に出発した。タワー氏が最初の3
マイルを馬車で送ってくれ、そこからネイス氏が馬でウォレスをロッタ村に案内した。巡
回視察を終えたトンダノTondano地区監視官がそこにいて、ウォレスが観察のために村々
を回るための案内兼付添い役を買って出てくれた。

南へ下るほど高原は上昇して涼しさが増し、美しい景観が楽しめる。村を三つほど通過し
たが、どの村も小ぎれいで清潔さに満ち溢れ、ウォレスを感嘆させた。木造の家々は6フ
ィートほどの高さのしっかりした青色の柱の上に作られ、どの家にも手すりで囲まれたベ
ランダがあり、家の周囲はオレンジの樹や花をつける灌木で囲まれている。そしてこの地
の景観は、美しいと言われてウォレスが想像していたものをはるかに凌駕していた。

午後1時ごろ、トンダノ地区の中心地トモホンTomohonに到着した。一行は土着民マヨー
ルの家で食事することになった。マヨールの家は風通しの良い大きな家で、地元産の硬い
木で作られ、優れた職人の手で形よく組み上げられていて、ウォレスはその完成度に驚か
された。家具調度品はヨーロッパ風に整えられ、見映えの良いシャンデリアランプが吊り
下がり、テーブルも椅子も地元の腕の良い職人の手で作られたものだった。

きれいに櫛の入った黒い頭髪にこざっぱりした白い正装のふたりの少年が客人ひとりひと
りに水の入った容器と清潔なナプキンの載った盆を渡し、さまざまに調理された鶏とロー
スト・シチュー・フライのイノシシ肉、そしてコウモリ肉・ポテト・米・野菜のフリカッ
セが上等の陶製食器に置かれて供され、豊富なクラレワインとビールが添えられた。スラ
ウェシ島の山の中の土着民首長の食卓にそのようなあり様を見出したことに、ウォレスは
信じられない思いを抱いた。

マヨールは黒のスーツにパテント皮の靴を履き、自然で優雅にふるまった。ホスト席に着
いて歓待してくれたが、あまり多弁でなかった。会話はすべて地元の公用語であるムラユ
語でなされた。監視官は東インド生まれの混血であり、かれにとって流暢な言葉は唯一ム
ラユ語だった。[ 続く ]