「インドネシア語とマレーシア語(7)」(2021年06月07日)

わたしもかつて、メガ大統領が行ったオープンハウスの時に国家宮殿に入ったことがある。
たいへんな数の群衆が集まって長蛇の列を作り、人数を区切って建物内に招じ入れられ、
応接間に立っている大統領夫妻と握手してそのまま通路から外へ出るだけのことだった。
夫妻が立っている空間以外の、建物内の他の場所はまったくオープンにされていなかった。
それがオープンハウスと呼ばれるものだと知って、自分の持っていたイメージとの落差に
驚かされた記憶がある。

ほぼ一日、待ち行列で時間を費やし、オープンにされたのは応接間と通路だけで、建物内
の他の場所を見せる意図は皆無だったから、わたしは二度と行く気にならなかった。しか
し大学教官のアッマッ・サヒダッ氏は、学校などの組織が行うオープンハウスと異なり、
個人がするオープンハウスではやってきた知らない人間にどこでも好きなように立ち入ら
せることはしないと説明して、わたしが抱いていた先入観を打ち砕いてくれた。openとい
う語が持っているいくつかの語感に関して、異なるニュアンスへの誤解をわたしがしてい
たということのようだ。


ともあれアッマッ氏は、マレーシア人はオープンハウスを逐語訳してrumah terbukaと呼
んでいるのに、インドネシア人は英語のまま使いたがることを指摘した。インドネシア人
の精神傾向からすれば、それはきっとその通りなのだろう。ムラユ語を使うよりも英語を
使う方がはるかにカッコよいのだから。

しかし心あるインドネシア人は、世界制覇を果たした英語を文化宗主国言語にしようとす
るその植民地根性を肯定することができない。英語を使わないで何か良いインドネシア語
を提案することができないだろうか、という話になった。griya binuka, sambang griya, 
gelar geriya, pisowananなどの候補が挙がったそうだが、どうもopen houseに勝てそう
な雰囲気ではない。


実はこの話、15年ほど前にも言語教育家パムスッ・エネステ氏が言及している。パムス
ッ氏はインドネシア語の中に、open houseの語義そのものの言葉が存在しているのだ、と
言う。

インドネシア語pintu terbukaの語義はKBBIに次のように記されている。
(1) resepsi informal di sebuah rumah dengan tamu yang bebas datang dan pergi
(2) waktu yang disediakan secara terbuka untuk kunjungan ke sekolah, lembaga, 
dsb untuk kegiatan seperti inspeksi dan observasi

(1)は大統領や公職高官が行うものにフィットしており、(2)は学校や住宅地の展示ハウス
などに合致している。だからオープンハウスという英語の代わりにピントゥトゥルブカが
特別な操作もなしに使えるではないか。

だがパムスッ氏の主張を何人のインドネシアビジネスマンが読んだかどうかわからないも
のの、その15年間にOpen HouseをPintu Terbukaに変えた宣伝広告がヌサンタラのどこ
かに登場したような形跡は、どうも見つからないようだ。


インドネシア語としてはほとんどその意味が消えてしまった言葉なのに、ムラユ語ではそ
れがまだ生きている例をカシヤント・サストロディノモ教授が書いている。

リアウ州トゥンビラハン出身の友人が「Jakarta membual lagi?」と言って来たから、昨
今の政治エリートたちの無意味な大言壮語の応酬を話題にしようとしたかと思ったら、
「ジャカルタでまた洪水か?」という天災の話だった。確かにbualの第一義は水の音や水
があふれることになっている。

現代インドネシア語でbualはほとんどomong kosongやborakの意味で使われており、洪水
についてはbanjirやluap,gelegakなどを使うのが普通だ。だから、Banjir besar membual 
di Jakarta setiap tahun.という文章が書かれることは考えられない。その意味における
bualというのは、むしろジャワ語で水の沸騰する音や水源から水があふれる意味で使われ
るmubalに近いものと思われる。[ 続く ]