「インドネシア語とマレーシア語(8)」(2021年06月08日)

偉そうに放言する意味のbualも、ムラユ語では元々ネガティブでないニュアンスで使われ
ていたようだ。アブドゥラ・アブドゥルカディル文司Abdullah bin Abdulkadir Munsyiの
著作であるKisah Pelayaran Abdullah Ka-Kelantan dan Ka-Judahの中に書かれた文Maka 
sahaya berkhabar-khabar-lah dengan dia ....について編集者は世辞を述べることを意
図したberbual-bualの意味だと解説している。 

ムラユ語ではomong kosongに該当するcakap anginという実に適切な表現がある。Hikayat 
Abdullahの中に、中身のないkosongの意味でanginが使われている例が見つかる。
tjakapnjapun berlebihan, supaja dipertjaja orang akan dia pandai, tetapi tjakap 
angin sahadja 

あるいはtemu bualという表現がwawancaraを意味して使われている。ここでのbualもネガ
ティブなコノテーションを持たない対話の意味であり、現代語があくまでも悪いニュアン
スを込めているのと大きく異なっている。


2004年当時マレーシアに留学していたナスルラ・アリファウジ氏は、既に長期に渡っ
て論争の種になっているインドネシアの省略形Indonについての感想を留学生時代に書い
た。わたしの個人体験では、1980年代末ごろからIndonesiaをIndonと省略することが
シンガポールの英語メディアで行われており、ジャカルタでも英語新聞がそれに倣ってい
たことを記憶している。

その時代、Indonが蔑称であるという意見はインドネシアでまったく起こらなかったよう
に思う。だから、それから十年以上が経過して、マレーシアのメディアが同じことをしは
じめたとき、インドネシアで猛反発が起こったことにわたしは驚かされた。英語の世界で
行われているかぎり、もめごとにはならなかったのだろうが、同じムラユ語の中でそれが
なされたときにインドネシア人の逆鱗に触れたという印象が強い。

もっと後になって、多分オーストラリアのメディアからだろうと推測されるのだが、イン
ドネシアのガウル層の中にIndonesiaをIndoと省略する者たちが現れた。この動きについ
ては、インドネシア国内でほとんど無視されているように見える。たとえオーストラリア
であろうがフィリピンであろうが、Indoが英語メディアの中で使われているかぎり、イン
ドネシア社会にとっては痛くもかゆくもないということなのだろう。


たとえどんなに長い単語であろうとも、それが国や民族や団体や地名の公式名称であるな
ら、フォーマルな場では省略や短縮を避けるのが礼儀である。もちろん、本人がUSAの
ように省略形や短縮形を使っているのなら問題はない。しかし最高に儀式張った場面では、
それですら省略や短縮をしない方が形式美のエクスタシーはクライマックスに達するだろ
う。

公式名称の省略や短縮にはふたつの相反する副次効果が出現する。ひとつは親愛の感覚で
あり、なれ合った親密な関係を匂わせる雰囲気が立ち昇る。もうひとつは侮蔑であり、対
象の公的な存在という立場を認めず、相手を尊重しない意図を示して、相手の立地を失わ
せる行為になる。

この矛盾した相反する副次効果の一方だけを言い張るのは、片手落ちであるにちがいある
まい。だが現実に日本語の中でも、インドネシアとその省略形ネシアの議論に関して、蔑
称であるからやめろという片手落ちが行われているようにわたしには感じられる。

単に長い単語を縮めて省エネを行っているだけだと言うナイーブ派日本人にはコメントの
しようもないのだが、いい年齢の大人がそこまで唯我独尊になれるのかという思いは避け
ることができない。それは別にして、ネシア愛用者の中に親愛派がいないわけでは決して
あるまい。それを頭ごなしに「おまえは蔑称を使うな。」と言われたら、本人の意図は違
う所にあるのだから、反発が起こらないはずもあるまい。[ 続く ]