「イギリス人ウォレス(39)」(2021年06月08日)

とはいえ、被害者全員が殺されており、また加害者を捕らえて法廷に引き出すこともでき
ないのだから、襲撃の前に何かがあったのか、襲撃が計画的に行われたのか、そのあたり
の事情は推測の域を出ない。しかし歴史をたどって見るなら、4年前にちょうど同じその
村でゴロンのプラフ商船の50人超が皆殺しにされ、プラフに載せられていた商品や装備
・艤装品の一切が奪われた事件があり、ゴロンのプラフがそこを訪れるかぎり、適当な期
間を置いて同じことが繰り返される可能性は高い。

その状況を改善して、より文明的な通商を行えるようにするためには、その村に対する報
復が不可欠であり、そのような蛮行は長期のレンジでバランスシートが黒字になることは
ありえないという教訓を学ばせる必要がある。ところがかれらに罰を与えようとしても、
かれらは外来者の容易に進入できない山岳部の密林奥深くに逃げ込んで、裁きを免れるこ
とができる。かれらはいかに蛮人であっても、そのような因果関係と結末を十二分に検討
したうえであらゆるチャンスを利用して強奪や殺人を行っているのであって、蛮人だから
物事を論理的に思考する能力を持たず、後先の考えもなしに暴力だけをふるっているとい
う見方はあまりにも的外れだろう。

原住民首長を使って強奪者・殺人者を捕らえさせる方法がないわけでもあるまいが、オラ
ンダ植民地政庁が行っているシステムは自分の考えとあまり一致していないようにウォレ
スには思われた。


ウォレスのプラフが完成して進水し、その日に荷物の積み込みを終えると、即座にその翌
日、一行は出発した。1860年5月27日のことだ。その迅速な動きに地元民は呆気に
取られた。乗組員は三人のゴロム人と少年ひとり、そしてアンボン人の少年助手ふたり。

翌日、ブギス人集落のあるキルワルKilwalu島に到着した。キルワルはセラムラウッ島の
北西にある小さい砂州島で、ブギス人の東方の要港であり、島中が集落でいっぱいになっ
ている。島の大きさは50ヤードもなく、高さも満潮線の3〜4フィート上でしかない。
ところが素晴らしい真水が湧く泉があって、他の島とつながっていることを想像させてく
れる。

ゴロム商人はここへやってきて、ナマコ、マソイ樹皮、野生ナツメグ、べっ甲などかれら
の物産を衣服・サゴケーキ・アヘンと交換する。他地方の商人も、真珠や少量の極楽鳥を
運んで来る。バリの帆船はコメを運んできて、パプア人奴隷を買って帰る。セラム島から
サゴ、バリやマカッサルから米がもたらされて、あまり高くない値段で売られている。

ゴロム商人のここへ来る目的の大きい部分はアヘンの仕入れだ。ゴロム島内自身も大きい
市場になっているが、ミソオルやワイゲオも発展しているアヘン市場だ。そこへアヘンを
紹介したのもゴロム商人であり、島の首長や金持ち有力者らがアヘンに没頭しているため、
アヘンはゴロム商人にとって強い商品になっている。

はるか遠いシンガポールからブギス人は、華人の工作物やインド人の雑貨品、さらにラン
カシャーやマサチューセッツの織機までをもここに持ち込んでくる。パプアのあちこちで
交易して来たブギスのプラフがここに集まって来て、貨物を乾燥させたり揃え直したりし、
更にスラウェシへ戻る航海のために船の手入れを行っている。

ウォレスがキルワルへやってきたのは、集めた標本をマカッサルの船に託してテルナーテ
の家へ送ること、ならびにバーターのための商品を仕入れることが目的だった。ナイフ・
水盤・ハンカチなどをバーター用に仕入れ、斧・布・ビーズなどを自分用に買い、さらに
乗組員が海賊対策に絶対必要と言い張ったので長銃を二丁購入した。他にはスパイスや航
海中の食料などで、最期のドゥイッがなくなるほぼ直前まで行った。

それらの用事のためにキルワルに二日間滞在したあと、6月1日早朝にウォレスは出発し
た。強い東風に押されて正午にはセラム島東端を通過したものの、天候が悪化してきたた
めにセラム島北東海岸部のワルスワルスWarus-warus村対岸にあるサンゴ礁に入って停泊
し、天候の回復を待った。そして夜が来て、スコールに見舞われ、翌朝目を覚ましたとき、
ゴロム人クルー全員とプラフが姿を消していた。[ 続く ]