「インドネシア語とマレーシア語(終)」(2021年06月09日)

マレーシアとインドネシアのIndon論争も似たようなものだ。メディアが使うIndonは文字
数を減らすことでより多くの単語を盛り込むスペースを作り出し、それによって情報量を
増やすというきわめてテクニカルな理由が根底にある。戦時下の国民戦意高揚のためでは
ないのである。

だが、国家名称を相手の同意なしに省略・短縮することは不敬に当たるということを知っ
ているインドネシア人は、マレーシアメディア界の独善的な理由に好意的になれなかった。
ましてや、メディアにつられてそこの国民がみんなインドネシアという公式名称を使わな
くなれば、逆鱗に触れて当然だろう。在マレーシア国インドネシア大使館は活字メディア
にIndonが書かれるたびに、相手方に苦情を申し入れた。おかげで活字メディアでのIndon
の出現はかなり減少したが、声やテロップはすぐに消えて行くものであり、証拠が残らな
い。活字メディアは改善されても、音声メディアは大使館の手から遠く離れたところにあ
り、おまけに大多数国民への影響力はそちらの方が強いのだから、大勢の改善は遅々とし
てはかどらないことになる。


ナスルラ氏が留学生生活をクアラルンプルで送り始めたとき、マレーシアでインドネシア
が省略形で呼ばれていることを初めて知った。自分のアイデンティティに関わる部分で、
カルチャーショックがかれを襲ったにちがいない。

テタリッteh tarikパーラーで、道路上で、新聞で、テレビで、インドネシアという言葉
は跡形もなく消え去り、インドンがその座を占めていた。最初わたしはそれを、bedaを
bezaと言い、rahasiaをsulit、mobilをkeretaと言うような、マレーシア語とインドネシ
ア語との違いのひとつと感じて面白がった。しかしそのうちに、不愉快さ・無念さ・怒り
がない交ぜになって湧きおこって来るようになった。それは単に、インドネシアを勝手に
短縮して呼んでいるということだけでなく、そこにネガティブで蔑むような暗意が感じら
れたからだ。

偏見だろうか?そうは思わない。マレーシアに出稼ぎに来て、マレーシア国内で騒動を起
こす民族がふたつある。バングラデシュとインドネシアだ。マレーシアの新聞を開けば、
[Tiga Puluh Pekerja Indon Ilegal Ditangkap]、[Gaduh Sesama Pekerja Indon]などの
見出しが躍っている。マレーシア人はそのふたつの民族に同じことをした。バングラデシ
ュはBangla、インドネシアはIndonにされたのだ。わたしが知っている限り、そのように
扱われた民族はそのふたつだけなのである。

悲しむべきことに、マレーシア在住のインドネシア人さえもがインドネシアという言葉を
使わず、自らをインドンと呼んでいる。

知り合いのマレーシア人大学教官とこの話をしたことがある。教官はこう語った。「それ
は感覚的な問題でしかない。マレーシア人はみんな、別に悪意を込めてその言葉を使って
いるのではないのだ。ましてや、インドネシア人を侮蔑したり、軽んじたりするためにし
ていることでもない。インドネシアはインドネシアという偉大な国家であることを誰もが
認識している。われわれは同じムラユ系列なのだから。」

しかし、わたしの感覚は依然としてその言葉に納得できない。わが国はインドネシアであ
ってインドンという名称ではないのだ。オルバレジームが崩壊し、報道や言論の自由を含
んだ民主化の動きを進展させているわが祖国への誇りは、インドンと呼ばれることを承服
させないのである。

マレーシア国民がインドンという呼称をやめて、インドネシアをインドネシアと呼ぶよう
になることを、わたしは強く希望している。それを実現させるために、わたしをインドン
と呼ぶ人があれば、わたしは常にそれを否定することにしている。「わたしはオランイン
ドンでなく、オランインドネシアです。」と言って。マレーシアにいるすべてのインドネ
シア国民が同じような姿勢を示すことによって、わたしの希望はより早く実現するだろう。
その日が一日も早く到来することを願ってやまない。[ 完 ]