「インドネシア語史(1)」(2021年06月10日)

ライター: 文学者、アイプ・ロシディ
ソース: 2000年1月1日付けコンパス紙 "Bahasa Indonesia, Bahasa Kita"    

   1945年憲法の中の第36条に「インドネシア語を国語とする」とインドネシア
語の地位が定められている。インドネシアの国家がかつて持った三つの憲法、すなわち1
945年憲法、インドネシア連邦共和国憲法、1950年暫定憲法、のいずれにおいても、
その地位が揺れ動くことはなかった。憲法改定委員会が憲法改正案を公表したとしても、
国語としてのインドネシア語の地位が揺れ動くことはないだろう。

国語という語義の説明がなくともその地位は、インドネシア語が1928年10月28日
の青年の誓いの中で統一言語として合意されたできごとの延長線上にあるものだ。そのと
き、インドネシアの民族と国家を建ち上げた青年たちは、誓いの形で三つの合意を定めた
のである。
(1)われわれインドネシア青年男女は、インドネシアの地というひとつの祖国にあるこ
とを表明する
(2)われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というひとつの民族にあるこ
とを表明する
(3)われわれインドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を奉持する

その当時、インドネシア語は民衆社会の中でムラユ語と呼ばれていた。オランダ植民地政
庁はインドネシア民族という言葉の使用を禁止したが、1942年に日本軍に降伏したた
めにその禁令は終息した。インドネシア語という言葉を使っていたのは主に、民族系メデ
ィアを含む民族運動家たちだった。

言うまでもなく、そのころインドネシア語という言葉で呼ばれていた言語は、インドネシ
ア語の基盤をなすムラユ語そのものだった。インドネシア語とは、依然として理想の段階
を越えていなかったひとつの祖国というテリトリーに生きる諸民族を統一するための、1
928年に誓い合った青年たちが使う名称だったのである。

この民族は個々に独自の文化と言語を持つ数百の種族で構成されていても、インドネシア
民族というひとつのものに合体すると想定された。祖国とはオランダ領東インドと公式に
呼ばれていた一万数千の島々である。

インドネシア語という名の統一言語に指定されたムラユ語は、最大多数の使用者を持つ言
語でもなく、また文学面でもっとも豊かな言葉でもなかった。であるにもかかわらず、そ
の指定は全会一致でなされたのである。おまけに今日に至るまで、その選択を見直そうと
いう試みは、起こったことがない。どの地方語であれ、それを発展させることに意欲を燃
やすひとびとのなかに、国語としてまた統一言語としてのインドネシア語の地位を自分が
推す地方語に入れ替えたいと主張するひとがいるという話を聞いたことがない。


オランダ植民地政庁は20世紀への変わり目に、植民地搾取の効率を極大化することを目
的にしてムラユ語を行政用語に採り上げ、その目的達成のための一要素として政庁はオパ
イゼンCA Van Ophuijsenにムラユ語の標準言語体系を編成させた。かれが作り出したラテ
ン文字によるムラユ語標準表記法はそれ以来、オパイゼン式綴りと呼ばれるようになった。
オランダ人ムラユ語学者たちがまとめあげたこのムラユ語体系が、その後政庁が設けた学
校教育システムの中で、ひとつの課目として教育されるようになる。

1908年に植民地政庁は植民地教育と民衆図書のための委員会を設けた。その発展形態
として1917年にバライプスタカが作られて、オランダ人学者が編成したムラユ語が出
版物の形でますますシステマチックに東インド民衆の間に送り込まれるようになった。

その出版機関バライプスタカは、初代事務局長リンケスDr A Rinkesが書いたように、政
庁の統治と国家の安寧に障害をもたらすあらゆる物事から読者を遠ざけるように努めただ
けでなく、使われる言葉の監督と統制すら行ったのである。[ 続く ]