「イギリス人ウォレス(41)」(2021年06月10日)

一年分の食料を手に入れるためのコストはどうか?サゴの樹を生サゴに加工するのに、男
ふたりが5日間働けば十分だろう。しかも5日間に作業プロセスを分けることで、一日当
たりの労働は軽いものになる。続いて生サゴをサゴケーキに焼く作業を行う場合、5日か
けて1千8百枚を焼くのなら、一日のノルマは360枚で焼き型の60回転分になる。型
を複数持てば実労働時間は短くなる。もちろん、生サゴも日持ちがよいので、一気に一年
分を焼き上げる必要などまったくなく、サゴケーキ作りは一年中のいつでも行うことがで
きるから、一年の中のその日数だけ働けばよい。

「一年を十日で暮らすよい男」という日本のことわざは、セラム島人の生活にも十分に当
てはまるものだったようだ。しかしそれでセラム島人がよい男になったかどうかは分から
ない。

サゴの樹のオーナーにとっては上のような話になるが、サゴの樹を持っていない者は金で
買わなければならない。樹を一本、丸ごと買うのは7シリング6ペンスの出費になる。労
働力を買う場合は一日5ペンスでひとり雇える。樹のオーナーが行っている上のような作
業を全部金で買おうとすれば、12シリングで終わる。一年間の食費が12シリングでま
かなえるのだ。つまり、サゴの食費はきわめて廉価であると言うことができる。

この食料の廉さは決定的な不利をもたらす。サゴの産地の住民は、コメ産地の住民ほど裕
福でない。かれらは野菜や果実を食べず、食べ物はサゴと小魚ばかりだ。家での物作りと
いった換金的仕事もほとんど行わず、小規模な商売や魚取りのために近隣の島々を巡るだ
けで、暮らしの中の慰安や娯楽はボルネオの内陸ダヤッ族やヌサンタラのもっと未開な種
族よりも貧しい。

ウォレスはそのお気に入りのサゴケーキをたくさんのイギリス人に知ってもらいたいと考
えたのだろう。かれはもちろんサゴケーキの標本をイギリスに送った。4枚のサゴケーキ
は完璧な状態で、いまだにイギリスのキュー王室植物園に保存されている。キュー王室植
物園には、ムルベイmurbei樹の木の皮で作られた衣服も保存されている。それはウォレス
がバチャン島で入手したものだ。


そのたいへん経済的な食糧であるサゴが、政府方針によって非常食の地位に追いやられて
しまった。オルバレジームは全国民に食を与えるためのツールとして米・トウモロコシ・
大豆を選択し、コメの生産とコメの消費を根幹に置く一元的な国民食糧自給政策を推進し
たのである。

言うまでもなく、コメ栽培にあまり適していなかった東部インドネシア地方にもその波は
押し寄せた。行政は全国民が同じようにコメを作りコメを食べるように導いた。そのため
に、惜しげもなく国費が支出された。おかげで、マルクにはブル島やセラム島という米ど
ころが生まれた。ところが、実際にそれらの土地でコメ作りに従事したのはジャワ島から
来たトランスミグラシ農民がメインを占め、原住民が行った耕作との間に大きな差が開い
たのである。原住民はコメ生産に熟練することなく、生産の場にあまり関わらなくなって、
消費者の役割だけを担うことになった。政府が廉くした貧困者用米が順調に送られて来れ
ばそれを買い、その供給に問題が起こったときにだけサゴに手を出すようになってしまっ
たのだ。

マルク州食糧自衛局データによれば、州民のサゴ消費はひとり一日当たり3.2グラムし
かなく、コメ消費量はひとり一日310.7グラムという大きな差がついた。州民がサゴ
を顧みなくなるとともにサゴ林面積も減少し、50年前に10万ヘクタールあったサゴ林
は三分の一になってしまった。

インドネシアに125万ヘクタールのサゴ林があって、そこから年々3,750万トンの
乾燥サゴが生産されるなら2億人の食糧自給は万全である、と言われている。そのサゴが、
ただむなしくジャングルの一部を形成するだけになってしまっているのが現状だ。
[ 続く ]