「インドネシア語史(2)」(2021年06月11日)

一方、民衆の中で健全に使われている生きたムラユ語と植民地統治行政が使わせようとす
るオランダ式官製ムラユ語の併存は、一方に低級ムラユ語bahasa Melayu Rendah、他方に
高等ムラユ語bahasa Melayu Tinggiという名称が与えられて差別された。低俗さの印象は
bahasa Melayu Cinaやbahasa Melayu Pasarと呼び変えられても大した違いにならない。

その命名法は明らかに、統治者が上位、非統治者が下位にあるという尊大な意識を示すも
のである。チナという呼称を使ったのは誤りだった。実態は一般民衆の中で使われている
ムラユ語を華人も使ったということなのであり、華人コミュニティでのみ使われたような
ものではない。異種族や異文化の人間同士の会話においてリングアフランカとして使われ
たのが一般民衆の使っていたムラユ語なのだ。それは何世紀にもわたってヌサンタラの各
地で行われていた。その点において、リングアフランカとしてのムラユ語をパサルムラユ
語と呼ぶのは妥当に思われる。異人種異文化人が交易のために出会う場所がパサルである
なら、そこで使われる言葉にパサルの語を冠するのは妥当性が高い。


ハジ・アグッ・サリム、インシニュール・スカルノ、ドクトランドゥス・モッ・ハッタ、
シャッリル、ナツィ―ルその他の独立運動指導者たちは論説や演説にインドネシア語を使
い、インドネシア語を豊かなものに育てあげた。植民地主義・社会主義・マルクス主義・
デモクラシー等々の、かつてムラユ語で行われることのなかった思想や観念の表現をかれ
らが行ったことで、インドネシア語はムラユ語を越える豊かさを備えるようになったので
ある。

文学の分野では、アブドゥル・ムイスが1928年にSalah Asuhan、アルメイン・パネが
1938年にBelengguを発表し、それまでの文学界になかった新ジャンルの小説として迎
えられた。作品のテーマも従来のムラユ文学には見られなかったものだ。ムラユ伝統文化
の中からはアミル・ハムザが出て、ムラユ形式を踏まえつつも従来のムラユ詩が持ってい
なかった表現の天地を拡大する作品Nyanyi Sunyiを1937年に発表した。


1942年から45年までの日本時代にはオランダ語の使用が禁止され、日本語は実用レ
ベルに達していなかったためにインドネシア語が行政と教育のための言語として使われた。
それは統一言語としてインドネシア語が発展するためのゴールデンチャンスだった。史上
始まって以来はじめての、インドネシア語が広範で且つ稠密に使用された時代だったのだ。

ブンカルノやブンハッタ、あるいは他の民族指導者たちが全国を回って民衆の意欲を湧き
たたせる演説を行い、またラジオを通して全国民向けにスピーチを放送し、そこでは必ず
インドネシア語が使われたから、日々の生活に地方語ばかり使っていた全国民がますます
インドネシア語になじむようになっていった。1945年憲法に記された国語というもの
にインドネシア語をするためのプロセスが、そのようにして順調に進展して行ったのであ
る。

そのおかげでインドネシア民族は、独立した当初から国語、つまり国民統一言語を持つこ
とができた。その点で、シンガポール、フィリピン、インドなどの近隣諸国とインドネシ
アの事情は大幅に異なっていた。それらの国はいまだにひとつの国民統一言語を持ち得ず、
そのための努力が続けられている。第二次大戦後に独立した多くの国が宗主国の言語を国
民統一言語にしたのとは違って、われわれは独自の言語を持つことができた。われわれの
インドネシア語は、どのように繊細な感情にせよ、どのように高度な概念にせよ、たいへ
ん複雑な思考を伝えることのできる十分にモダンな言語なのである。

一般的に旧宗主国の言語が英語やフランス語などの豊かな現代語であったために、それを
国語にした国々にもメリットが生じた。それらの言語宇宙が歴史の中で蓄えて来た思想・
文化・学術の成果がかれらの前に一挙に扉を開いたのだから。おかげでそれらの言語を使
うようになったひとびとが生み出す文学や科学が、巨大なその言語世界にそのまま受け入
れられて、鑑賞され評価されるようになった。ところがその反面、かれらの歴史の中に芽
生えた本源的な民族文化とそれが生み出す感情の襞を表現する言葉を宗主国言語の中に見
出し得なかったために、異文化人の感情表現との間に隔靴掻痒の念を抱くことも起こった。

どの言語も語彙と用法を持っているが、それはその言語を培った民族が自分の文化を描き
出すのに最適なように作り上げた独特なものなのである。[ 続く ]