「イギリス人ウォレス(42)」(2021年06月11日)

ところが、ウォレスの愛したサゴケーキを作っている住民がいまだにいた!!
ジャイロロのドディンガ村にロティサグroti saguを昔ながらの手作業で作り、販売して
いる村人が何人かいるのだ。ウォレスがサゴケーキと書いた品物は原住民がロティサグと
呼んでいたものであり、ウォレス自身も自著の中でそれに倣ったサゴブレッドsago bread
という表現を併用している。

サゴの樹の加工をほとんどやめてしまったマルク人の中に、ロティサグを作るためにそれ
を続けている者がいるのだろうか?残念ながら、その答えはティダッだったのである。昔
ながらのロティサグの形をしている品物を、材料を替えて作り、昔の名前で売っていたと
いうことで、世間ではよくある話だ。

ドディンガ村のアルウィヤさんは、キャッサバの粉をサゴの代わりに使い、仲間とふたり
で一日にロティサグを3百枚作る。作った製品は乾燥させた上で、ロティサグの名前で近
隣の商店に卸し販売しているのだ。

朝午前4時から、サゴケーキの型を熱し、その中にキャッサバ粉を軽く詰め、2〜3分焼
いて食パンの形にし、作ったものを1〜2日間天日乾燥させる。乾燥させたものはひと月
持つが、乾燥させないものは一週間しか持たない。

ドディンガ村のアブドゥラさんはシンコン製ロティサグの愛用者だ。朝はこれを食べるの
が一番だとアブドゥラさんは言う。主食はもちろん、もう米の飯に変わっている。ただ、
子供のころから培った朝食のロティサグを続けることが、材料や味が変わっても、かれに
とっては意味のある人生なのだろう。


ワルスワルス村は低地の湿地帯にあり、住民は栽培らしいことをしないから、森林へ入っ
て行く道もなく、ウォレスはその地で鳥や虫の採集ができなかった。ウォレスにとってセ
ラム島はあくまでも採集活動に向かない土地であった。

村の住民を長期に雇って遠方まで行くことができなかったため、セラム島北岸中央部にあ
るワハイWahaiまでという条件で乗組員を集め、5日かけてワハイに移動した。ワハイは
セラム島北岸のオランダ人本拠地であり、軍事基地がある。6月15日にワハイに到着し
たウォレスは、基地司令官と旧知のローゼンベルフ氏に迎えられた。ローゼンベルフ氏は
業務出張でワハイに来ていたのだ。ローゼンベルフ氏はクルーに払う金をウォレスに貸し
てくれた。

ウォレスと契約して各地で標本採集活動を行っているチャールズ・アレンからの手紙もワ
ハイに届いていた。そのとき、かれはミソオル島のシリンタSilintaにいて、コメなどの
必需品や標本用ピンなどが欠乏しており、おまけに病気になったために、ウォレスの援助
を求めていた。ウォレスが来られなければ、かれはワハイに移動すると書いている。

現代インドネシアのミソオル島にシリンタという地名は見られず、あるのは東南海岸部の
レリンタLelintahという地名だが、ウォレスが書いた地図にあるシリンタはずっと西の位
置にあり、本当に同一なのかどうか確信が持てない。しかし英語版インターネット記事に
は、そのふたつが同一地であるように書かれている。


ウォレスはミソオル島を経由してパプアのワイゲオ島へ行くことにした。その航海のため
のクルーが3人と水先案内人ひとりが集まった。鳥撃ち用に雇ったアンボン人少年ふたり
も、ウォレスの助手としてその航海に同行する。

セラムとミソオルの間は60マイルの大海だ。その大海の上を東からの強いモンスーンが
吹き付けている。それを考慮したウォレスは、航路をまずセラム島北岸のはるか東方まで
進み、北上する時西に流されてもシリンタに着けるように設定した。

6月17日にワハイを発ち、沿岸を東に進んだ。18日の夜明けを迎えたとき、プラフは
ろくに東方へ移動しておらず、まっすぐ北上できたとしてもミソオル島西端部近辺にたど
り着けるような位置にいることが明らかになった。水先案内人の不手際だったようだが、
本人はここから北上してもシリンタに着けるから大丈夫だと太鼓判を捺す。[ 続く ]