「インドネシア語史(3)」(2021年06月14日)

   独立してからインドネシア語は、大学のすべての学問分野で媒介言語として使われ
得る能力を持っていることが実証された。その結果、戦前行われていたオランダ語による
大学教育はインドネシア語に取って代わられた。

文学の世界では日本時代に、ムラユ語を深く身に着けたメダン出身の青年ハイリル・アン
ワルが文壇に登場し、パサルムラユ語の語彙と表現を自在に取り入れた詩作を行って好評
を博した。かれの作品は文学言語としてのインドネシア語表現にまったく新しいパースペ
クティブを開いた。ハイリルは、かつてムラユ語で一度も行われたことのない、現代人の
体験と感情を描写する文学表現の媒体にインドネシア語がなりうることを証明したのだ。
学術表現であれ文学表現であれ、インドネシア語の現代語への成熟はそのようにしてなさ
れたのである。

それ以来、インドネシア語の発展はいっそう強固なものになった。学術論文、学士論文、
修士論文はますますたくさんインドネシア語で書かれるようになり、インドネシア語の散
文や韻文などの文芸作品もその数を増した。ムラユ文化の環境の外にいた文学者が増加し
て、スマトラ出身の文学者を圧倒するようになる。1950年代前半には新生民族として
のあり方について、文学・宗教・教育・経済から政治・哲学にまで至るさまざまな問題の
論争がインドネシア語で盛んに行われた。しかし考えを主張し意見を表明する自由な空気
は50年代末に枷をかけられてしまう。


国軍と共産党に支持されたスカルノ大統領は、1950年暫定憲法に基づいて大統領にな
った時の誓いを破ってクーデターを起こした。かれは1959年7月に行った暫定憲法を
護持するという誓いの言葉をかなぐり捨て、1955年に国民に選ばれた確定憲法編成委
員会を、仕事をしていないという虚偽の理由で解散させる大統領決定書を出し、行政府首
長である大統領に無限とも言い得る権限を与えている45年憲法を復活させたのだ。続い
て1955年総選挙の結果を反映した国会を解散させて、大統領好みの人間を集めたゴト
ンロヨン国会に変えた。更に二重機能コンセプトを国軍に与えて国民社会に対する統制を
行うようになる。こうしてスカルノ大統領は独裁的全体主義的政治体制を打ち出して言論
の自由を束縛したのである。

指導された民主主義という名前で知られたレジーム下に、インドネシア語は敵対主義的な
言葉で満たされるようになった。「民族の個性」「革命的精神」「NEFOS (New Emerging 
Forces)」を維持して「Berdirikari(Berdiri di atas kaki sendiri)」を達成するために、
植民地主義・新植民地主義・帝国主義・Oldefos(Old Forces)を「ganyang」しなければな
らず、援助と共に内政に口出ししようとする米国には「go to hell with your aids!」の
啖呵が叩きつけられた。1959年の独立記念日に表明された政治宣言(Manipol)および
Usdek(1945年憲法・インドネシア型社会主義・指導された民主主義・指導された経
済・民族の個性)を損なおうとするあらゆる謀略を防ぐべく、全国民は警戒意識を高める
努力を強いられた。

共和国創立以来はじめて、すべての出版社に国軍が発行する印刷許可書の取得義務が与え
られ、更に加えて出版許可書、そして用紙購入許可書までもが増やされた。それらが後の
SIUPP(報道出版事業許可書)制度の発端だ。報道の自由はそのようにして統制され
た。

政府の方針と異なる考えを抱く者は反革命者・国家反逆者であり、指導された民主主義の
敵であるリベラル民主主義者だというレッテルが貼られた。それらの罪名によってひとは
逮捕され、裁判なしに期限のない拘留を受けることになった。[ 続く ]